平成18年5月刊行「日本郷友連盟五十年史」の序章「沿革」の素稿である。
日本郷友連盟は敗戦後の混沌とした世情の中から誕生した。大東亜戦争敗北後の日本は、荒野と化した国土の中で国民の生活は困窮する一方、占領軍の日本弱体化政策はその精神文化にもおよび、わが国の歴史と伝統は破壊され、醇風美俗は廃れ道義地に落ち、国民精神の荒廃は目を覆うばかりであった。
とりわけ敗戦を背負った軍人への世間の風当たりは強く、国のために一身を捧げた英霊は犬死同然の扱いに曝され、遺族の中には路頭に迷うものもあり、旧兵役関係者の間には「こんなことでは英霊や遺族に申し開きができない」ばかりか「このような有様で日本の再建復興はありうるのか」(連盟十年史)といった憂憤の情が渦巻いていた。
このような世情下、朝鮮戦争が勃発、昭和二六年九月サンフランシスコ講和条約が締結され、翌年四月発効、わが国が占領下の桎梏から開放されると、全国津々浦々に、旧兵役関係者を中心とした種々の戦友団体が、思い思いに名のりを上げ、申し合わせたように、英霊の慰霊顕彰、遺族の援護、護国神社の復元、戦犯者の釈放、海外抑留者の帰還促進などを掲げた世直し運動が起こり、やがてこの動きは全国統一運動への流れとなって、三年後の郷友連盟誕生へとつながって行った。
第一節 生 成 ―悲願の全国組織誕生―
昭和二十八年、早くもその必要性は痛感されたが、全国統一組織結成への動きは、同年十一月、これに心胆を砕いていた元支那派遣軍総司令官岡村寧次氏が、総理大臣吉田茂氏より、激励(金一封)を受けた頃より、ようやく展開を見せるに到った。
同年十二月、同氏は事実上の世話役となり、旧陸海軍の要人の間を奔走、元帝国在郷軍人会(会長井上幾太郎氏・陸軍大将)や東京都在郷軍人会(会長安藤紀三郎氏・陸軍中将・元内相・国務相)の協力を得て、生れたばかりの戦友諸団体に全国組織の結成を呼びかける一方、その中心的役割を担う組織として、翌昭和二十九年五月、東京および近在の旧兵役関係者や有志を糾合、特に旧将官の間には慎重論もある中、陸軍では元陸軍大臣下村定氏、海軍では元連合艦隊司令長官小沢治三郎氏の歴訪説得が効を奏し、祖国再建と国土防衛を目的とした桜星倶楽部を結成、事務所(日本繊維工業株式会社社長桜内義雄氏の好意による無償提供)を東京銀座の桜田ビル内に発足させた。
困難を極めた事務所の取得の意義は大きく、桜星倶楽部は全国組織の嚆矢となった。
同年六月、神奈川県湯が原に、東京、神奈川、静岡、愛知、奈良、大阪の七団体三十四名の代表が集まり、全国組織結成の必要性を確認するとともにその推進方を桜星倶楽部に一任することを決議(湯が原会議)、ここに名実ともに推進本部となった桜星倶楽部は「旧兵役関係者を中心とする団体結成促進のための連絡斡旋なす」ことを新たに目的に加え、同年十一月、東京虎ノ門共済会館で、三十三都道府県から団体代表等百四十名が参加する全国代表者懇談会を開催した。同懇談会はそのまま第一回日本桜星会準備会に切り替わり、全国大会の速やかな開催を決議した。
その決議に基づき、翌昭和三十年六月五日、同じく虎ノ門共済会館で参加団体三十九代表百九十名による第二回日本桜星会準備会を開き、会名、会則、人事、申し合わせ事項、決議文等の案を決定、翌六日、会場を日比谷公会堂に移し、全国から参集した会員等二千五百名の参加者をもって結成大会を開催し、準備会提案の案件を万場一致で承認採択、ここに悲願の全国組織、日本戦友団体連合会の結成を見るに至った。
日本郷友連盟はこの年をもって誕生元年とする。初代会長には、連盟創設の団結と発展のため、人格高潔の誉れ高かった元関東軍司令官上田謙吉氏が推戴され就任、理事長には実質的な奔走者、岡村寧次氏が副会長兼務で就任した。
尚、この間、同年三月、今日の機関紙「郷友」の前身「桜星」創刊号が発刊されている。
日本戦友団体連合会はその名が示すごとく、地域に密着した自主的活動を主体とする、各地方団体の連合組織であり、組織上、政府の認可団体なるためには、各団体の個別認可に時日を要し、早急にことを進める必要から、翌昭和三十一年五月第二回戦友団体連合会総会で会名を日本郷友連盟に改めることに決し、同年十月正式に総理大臣より「社団法人・日本郷友連盟」として認可された。
なお、連盟はこの際、国民運動団体としてのけじめから,政治意思実現のための組織として「日本郷友政治連盟」を設立した。
第二節 発 展 (一) ―組織の充実と会勢の拡大―
待望久しき郷友連盟の誕生は、多くの人々によって祝福され多方面の関心を呼んだ。
なかでも、その誕生とその後の連盟の様子や活動が、嘗ての侍従武官平田昇氏(連盟副会長、最後の帝国在郷軍事会副会長)を通じて親しく天聴(昭和天皇)に達する機会(御所参内や葉山御用邸へのお招き)もしばしばあり、その御関心一方ならぬ趣は、関係者に深い感銘を与え連盟の名誉とするところであった。
連盟は、組織が軌道に乗った昭和三十二年五月、退任した植田謙吉初代会長の跡をついで理事長の職にあった岡村寧次氏が第二代会長に就任、結成時の熱気をそのままに、その期する理想の実現に向かって邁進した。
同年八月、桜星倶楽部以来行われていた「終戦時の自決烈士顕彰慰霊祭」や「殉国諸霊顕彰慰霊祭」を「大東亜戦争殉国英霊顕彰慰霊祭(於靖国神社)」と改め、郷友連盟会長を実行委員長として開催し得たのは、連盟結成の悲願をその活動で確認する象徴的な出来事であった。
これに先立ち同年五月、会旗、会歌を制定するとともに早くも各支部内に「青少年部」を設置、翌三十三年五月には同じく「婦人部」、三十四年八月には地域支部の外に「国鉄支部」、三十六年四月には「競艇支部」の職域支部(※)を、さらに同年六月に会長の諮問機関として「参与会」を立ち上げるとともに、三十七年五月、会員資格を発足以来の「旧兵役に服したる者」から「連盟の目的趣旨に賛同する者」に改め組織と会勢の拡充を図った。
かくして、三十八都道府県支部二十四万五千名の会員で出発した本体組織は、逐年増加の一途をたどり、十年後の昭和四十年には、都道府県支部四十六個、職域支部二個、青少年部支部四十三個、婦人部支部三十五個、総会員数四十二万六千九百九十名に達した。
この間、三十六年四月連盟事務所は銀座桜田ビルより目黒区三田の防衛庁技術研究本部第一研究所内に移転、さらに三十九年六月には今日の新宿区若葉に移り、連盟中枢事務の不動の本拠となった(事務所取得の経緯は個人所有住宅の譲渡受けとの説あるもの委細不明)。
注(※)国鉄支部は、新潟での国鉄労組による輸送阻止事件を契機として、国鉄は国民のものとする国鉄岩手盛岡工場内の良識派の人々が立ち上げた組織で全国九支社三千四百余名の会員からなる。
競艇支部は日米安保騒動に危機を感じた日本船舶振興協会(会長笹川良一氏 郷友連副会長)が対左翼運動で民間最大勢力をほこる郷友連の運動に共鳴したもので県競艇会を傘下に五千名。
この間、連盟の活動は、その誕生の経緯から、地方支部の自主的活動が活発をきわめ、地域の特性や事情に応じた英霊顕彰碑の建立や護国神社の再興運動が進められた他、昭和三十三年九月の狩野川台風、翌年同月の伊勢湾台風に際しては、関係支部が民防活動に立ち上り、災害の救援復旧活動に活躍、その教訓は、翌年、連盟に「防災活動基準」の制定をもたらした。
注(※)関係支部の民防活動には野村研究所(連盟顧問野村吉三郎氏、海軍大将・元外相)と共同作業所産パンフ「民防の参考」(昭三十三・三)があり、連盟の「防災活動基準」は後の法律「災害対策基本法」(昭三十六・十一)制定の誘引となった。(連盟十年史)
一方、連盟設立の本義に関わる国民運動には、中央が率先陣頭に立った。
先に見た「大東亜戦争殉国英霊顕彰慰霊祭」は昭和三十八年、多年の運動が実を結び、「全国戦没者追悼式」として政府主催による国家行事となった。
また、昭和三十一年二月十一日に始まった「紀元節奉祝国民大会」(日比谷公会堂)は紀元節復活運動として中央の恒例行事となり、同三十三年には「建国まつり」に改称、建国記念の日制定に向けた全国の国民運動の波は巨大な流れとなり、同四十二年「建国記念の日」制定を奉祝する式典として結実したが、その運動の中心には常に地方の郷友会があった。
一方、愛国運動の拡大浸透を図る立場からは、昭和三十八年四月「全国日の丸連合会」を結成、会長に元総理吉田茂氏を推戴、副会長に、岡村寧氏の後を襲って第三代会長についた後宮淳氏(元関東軍第三軍司令官)が就任し、大々的に「日の丸」運動を展開した。
第三節 発 展 (二) ―財務基盤の確立と国際活動―
昭和四十三年三月、後宮淳氏が退任し第四代会長に塩沢清宣氏(元陸軍第百十一師団長)が就任するも、翌年七月急逝、翌四十五年四月、会長代行を務めた元大本営陸軍部第二部長有末精三氏が第十五回総会で第五代会長に選出され就任した。
会勢は増大の一途たどり、昭和四十六年末に、四十五万三千名を超え、会員の会費を財源とする財務規模は支部を含めて七千万円に及んだが、納入率は五割に過ぎず十全の活動にはなお制約があった。
この様な状況のため、会費健全化の努力が払われる一方、関係者の努力によって四十五年六月、新日本製鉄社長稲山嘉寛氏を筆頭に、日本精工社長今里宏記氏、富士銀行社長岩佐凱実氏、日産自動車社長川又克二、ブリジストン社長石橋正二郎、昭和電工社長安西正夫氏の六名の財界首脳を発起人とする「郷友連盟後援会」が結成され安定した財務の後援者を得たことの意味は大きかった。
同後援会には当初わが国の代表企業二十四社が名を連ね昭和五十年には新たにおよそ四十社が加わることとなり、郷友連盟の財務基盤を確固たるものにした。
時あたかも、この年は七十年安保改定の年にあたり、翌年に沖縄復帰を抱えた騒然たる世相のなかで、連盟は新会長のもと、年次総会に引き続き、「安保推進大会」を催し、大会宣言後、街頭行進に移り、日比谷公会堂で「豊かな沖縄つくる国民会議」を開催し、反左翼運動の先頭にたった。
安保改定、沖縄返還後の四十七年五月、「自主憲法制定国民会議」に八百名が参加、四十八年年八月、北方領土返還署名運動を展開、十五万名の署名を集め「北連協」加盟団体二百万名署名の一翼を担った。
翻って、郷友連盟は殉国烈士の慰霊顕彰を原点に祖国の再建と国民精神の復興という国事に専念することもって本来の使命としたが、もとより今次大戦の惨禍は言語に絶するもので、世界では戦勝国も敗戦国も二度と戦争は起こしてならないとする風潮にあり、心情においては郷友連盟も同じであった。
欧州では千九百五十年(昭和二十五年)「戦争を戦ったもの以上に平和については力強く語りうるものはない」とのモットーの下、英米仏伊白ユーゴの六カ国の退役軍人会の代表がパリに集まり、世界歴戦者(退役軍人)連盟(World Veterans Federation)を創設した。
同WVFは国連の目的実現に寄与することを目的として活動し国連経済社会理事会の諮問に預かる第一級の非政府機関の地位を保持し、加盟国は逐年増加の傾向にあった。
わが郷友連盟は、先に加盟を果たしていた「日本傷痍軍人会」(昭和三十一年五月)の誘いで、昭和三十四年四月(第八次WVFアテネ総会)に加盟した。
これを契機に連盟は国際活動の時代を迎えることとなり、連盟と日本傷痍軍人会のWVF総会や理事会への参加の機会は増大、その活躍は昭和三十八年五月の第十次WVFコペンハーゲン総会において「原水爆禁止・軍縮」をめぐって紛糾した決議案を有末氏が仲介斡旋案をもって円満解決に導き日本の声望を高めるまでになった。
このような日本代表団の継続派遣やわが国への期待の高まりに対応するため、昭和四十年二月、政財界の支援のもと財団法人・日本WVF協会(会長賀屋興宣氏・元蔵相法相、理事長有末氏)が設立され、その成果は、昭和四十年五月スイスのローザンヌ行われた第十一次総会での有末代表の佐藤総理からのメッセージ代読と演説が反響を呼んだことや、同年十月連盟十周年記念総会に世界WVF会長ファン・ランショット氏が来日し、日本郷友連盟の活躍を称え、靖国神社、千鳥が淵を訪れ殉国の英霊に献花、内外マスコミの注目する中、翌朝、NHKテレビの番組に出演、WVFの信条とする世界平和と日本の役割について熱く語る姿が映像となって全国の茶の間に流れるという事象にも現れた。
昭和五十年八月、わが国から三十名の代表団を送った「第二次世界大戦三十周年記念」第十四次WVFシドニー総会では同氏の英語の演説が好評を博し地方紙に大々的に報じられたと記録は伝えている。(二十周年史)
第四節 試 練 ―社会の安定化と会勢の下降化―
祖国再建と国民精神の復興に身命をなげうつ連盟の組織と会勢は、拡大発展の一途をたどり、連盟の共産主義拡大阻止運動が山場をむかえた昭和四十五年、その隠然たる勢力と活動は暴徒や過激派の騒擾や破壊がもたらす社会不安のなかで大きな安定力となったが、安保問題が国民の良識で克服されると、それを境に騒然たる左右対決の社会情勢も遠のき、昭和五十年の、四十七個支部、四十五万三千九百三十二名の会員を最高に爾後、支部青年組織や職域支部の活力は萎え解散、自然消滅の運命をたどるとともに地方支部会員の疲労と老齢化も進み、会勢の下降化は自然の流れとなった。
この状況は、昭和五十二年第六代会長に就任した杉田一次氏(元陸上幕僚長)の体制下でも深刻に受けとめられ、五十三年には、異例の支部再建・会員五十万名獲得のための長期(七カ年)計画の策定(機関誌「郷友」二十四巻一号」を見る一方、毎年度、連盟の事業計画書は「組織の整備拡充」を強調し、「会員名簿の整理と報告」「会費制度の確立」に支部の奮起を促している(三十年史)。
しかしながら退勢の回復ならず、昭和六十年、支部申告の会員数は、なお四十四万三千を数えたものの、その数字には家族等の員数が含まれているものと思われ、休眠状態に陥った、三十年史掲載不能の支部は十一個支部にも及んだ。
先に見た日本WVF協会の国際活動も、日本傷痍軍人会の脱落(昭和四十四年ごろより記録なし)があり、五十年のシドニー総会を最後に、団体の参加は困難になり辛うじて連盟から参加した単独代表が友好親善の維持と現状把握するだけのもとなって、協会の存在は有名無実と化した。
しかし、これと踵を接し連盟の関心はわが国の安全保障と周辺諸国との友好関係の強化に移った。
昭和四十九年「韓国在郷軍人会」との間で日韓交流の合意が取り交わされ、同年十月、韓国「国軍記念式典」に理事等十五名を送り、翌年有末会長自ら百二名の代表団を率いて参加したのをはじめ、両国との関係は、第六代会長杉田一次氏をへて、第七代会長広瀬栄一氏(元北部方面総監)にも引き継がれ、同五十三年十月に日韓親善大会を開催、五十六、五十九両年には広瀬氏を団長とする参観団が同上記念式典に参加した。
アジア重視の姿勢は昭和五十四年九月に「日華韓三国相互親善、相互交流発展を図り、東亜の安全保障と共存共栄に寄与する」ことを目的として中華民国の「退除官兵補導委員会」を加えた「東亜安保同志会」の発足をもたらした。
本会は、情勢の変化と内部協力団体の事情により、自然消滅の運命を辿ることになったが、後の海外研修旅行の定番コースとして残った。
一方、連盟の事業は、安保克服後の五十年代に入り、本然の英霊の顕彰、伝統美風の継承を重視しつつも、努力の重点はソ連のアフガン侵攻に始まる新たな極東情勢の展開により次第にわが国の安全保障に重点を移すこととなった。
特に、千九百八十年代の重大な時局に対するわが国の態勢は低調であるとして連盟の決起を自らに促し、参与会を活用して世論の喚起に寄与させるとともに、北方領土返還要求運動連絡協議会の幹事団体の立場に絡めて北海道防衛態勢強化について、数次にわたり行った為政当局に対する要請は連盟最大の事業の観を呈した。
また、一般青壮年者の啓蒙のために、六十二年二月開設した第一回月例「防衛講座」は、後に連盟直轄郷友会に発展した。
それに先立ち、連盟は、四十周年を期に、組織の存続と後世代の活動後拠として、昭和六十、六十一年の両年にわたり全国規模の寄付目標額五億の募金活動にあたり、およそ一億一千万円を調達、郷友基金を設立した。
第五節 再 生 ―活性化の試みと新しい連盟像の模索―
昭和六十三年五月、会勢回復努力の途上、第七代会長広瀬栄一氏が逝去、翌平成元年三月、会長代行の田中耕二氏に代わって元参議院議員堀江正夫氏(元西部方面総監)が第八代会長に就任した。
連盟は平成の清新の気みなぎるなか、「組織会勢の活性拡大化」と「国家安全保障体制の刷新」に取り組み、同年六月、議員懇談会の定例化をはじめ、新防衛トップセミナーや講演会を事業化、参与会に安全保障研究会を設置して新機軸を打ち出す一方、郷友基金の有効活用によりこれらを地方に拡大、支部組織の活性化と会勢拡大を図り、平成二年十月には、連盟創立三十五周年記念大会を開催するに至った。
また同時に安全保障研究会の成果をもとに政府与党に行った「今後の安全保障・防衛政策」に関する提言は、爾後の「政策提言」活動の範例となり、新しい国際活動の試みとして、平成三年六月の中華民国に続き、同四年五月実施した中国研修旅行は爾後、年次海外研修旅行の原型となった。
一方、平成二年二月、皇紀二千六百五十年奉祝式典、同年十一月今上陛下御即位奉祝パレード提灯行列参加は連盟の歴史伝統尊重の精華を示すものであったが、平成四年四月の有末、引き続く同五年四月の杉田の両名誉会長の死はそれらとともに連盟四十年の歴史を飾った輝かしい一時代の終焉を意味するものともなった。
連盟はこれを期に、平成六年、連盟創設以来、会員の心と行動の規範であった「連盟の理念(実践信条および同解説、昭和三十七年三月制定)」を新しい時代に合わせる狙いから、その精神は生かしながらも「理念」の文言と「解説」を外して項目列記に修文した簡潔な「連盟目的達成のための実践信条」を新たに制定した。
平成七年十月連盟は四十周年を迎えたのを期に、記念募金の余裕の中から、靖国神社に奉納金、「昭和御聖徳をつたえつぐ会」に協賛金をそれぞれ謹呈、また翌年四月には連盟会長堀江氏が「英霊にこたえる会」の会長に推戴されるなど、依然としてわが国の国民運動における連盟への期待は大きく、この時より開始した「祝日法案改正署名運動請願書」は平成九年四月、六十三万二千二百六十七名に及んだ。
さらに同年十月、先の参与会の中の安全保障研究会を「郷友総合研究所」に格上げ、同研究所は広範な連盟活動の理論的研究に従事する一方、月例「安全保障フォーラム」を開催して成果の発表や時局講演会の設営を行うこととなった。
このような努力の結果、これまでの休眠状態にあった支部に再生の兆しが見え、平成七年には六個支部の復活をみたが、会勢の回復までには至らず、逆にその会員数は平成二年三十五万九千名、同七年には二十三万五千名と半減、同十二年には四万九千名にまで激減、その流れはとどまるところ知らない勢いとなった。
この間、連盟にとっては皮肉にも、平成に入って訪れたバブルの崩壊とその後遺症により、わが国の経済は展望が見えず、業界を襲った総会屋スキャンダルの余波は後援企業(協賛会員)の会費減額や脱退等もたらし、連盟の財政事情は急激に悪化、会勢の衰退とあわせこの惨状を放置すれば、連盟の将来は予想すべくもなかった。
連盟はこの事態に事業費の見直しや事務専従職員の減員、事務費、会議費の削減等で対処しつつ、平成十年、基本問題検討員会を設置、数次にわたる検討の結果、郷友基金をもとに再建を図ることとし、翌年から「再建事業五カ年計画」に着手するに決した。
このような状況下、平成九年六月、老朽化した事務所に改修の必要が生じ大修理をおこなった。
平成十一年五月、連盟の活性化に新風を送り込んだ堀江会長が退任、連盟再建事業は第九代会長に就任した元統合幕僚会議議長寺島泰三氏に引き継がれることとなった。
再建事業は、旧来の連盟を支えてきた会員の急速な退場にともない中核となる新たな人材の発掘と、自然消滅状態にある支部の復活、なかでも基金に手をつけざるを得ない状況に立ち至った連盟本部の財務基盤の建て直しは火急の課題となった。
連盟創設以来、叫ばれてきた本来あるべき会員会費制度の確立は、もはや猶予ならず、背水の陣で支部の奮起を促す一方、新会長自ら率先して後援企業の再興と新規開拓を図ることとなった。
一方で、月刊「郷友」の編集に改善を加え、新たに季刊誌「誇りある日本の再生」と、研究事業成果の年刊「日本の平和と安全」を創刊、本部にインターネットのホームページを開設、連盟の魅力化と事務所の近代化を図った効果も相乗し、四万台に落ち込んだ会員数は連盟再建事業最終年度の平成十五年には五万台を回復し、北海道の四個支部体制化、沖縄支部の新編ほか直轄郷友会の東京支部編入、三個休眠支部の復活等で、会勢の減少傾向に歯止めが掛かり、微かながら曙光を見出したものの、その前途は楽観を許さない状況にある。
この様な再建努力の一方、連盟は従来の安全保障や国民運動のテーマに加え、マスコミの誤報や政府要人の軽率な発言に端を発し外国から理不尽な対日非難や内政干渉を招いている「歴史教科書」、「慰安婦」、「靖国参拝」にまつわる新たな問題に深い憂慮の念を持っており、平成十二年八月北方領土日露平和条約緊急提言、同十一月、「防衛庁の省昇格」を五十万名の署名をもって関係団体と国会請願、同十三年九月米中枢同時多発テロ対策自衛隊派遣を緊急提言、十四年七月 国立追悼施設に反対する決起集会参加、同十一月愛媛県教科書採択問題に署名、十五年三月多様な脅威および要求にこたえる施設の推進について提言、十六年三月近隣諸国の干渉から教科書を守る運動署名一万名達成した。
この間、全国に参加者を募る海外研修旅行は、従来の韓国、中華民国(台湾)中国に加え、嘗ての激戦地や旧日本軍に由緒深い東南アジア諸国(タイ、シンガポール、インドネシア、ミャンマー、マレイシア、ベトナム、カンボジア、フィリッピン)や西太平洋(パプアニューギニア)、さらに、広く見聞を求めて欧州、米国、極東ロシアに拡がった(平成八年から同十七年)。
なかでも、平成十年年二月、日印友好五十周年に因んで計画したインド旅行は、インドの英雄スバース・チャンドラ・ボース率いたインド国民軍(INA)の生存者との交歓叶い、印麺国境で花開いた日印両軍の友情と協力が回顧され、両国の殉国烈士への供養となり実りの多いものとなった。
翻ってここに、連盟の歩んだ五十星霜を顧みれば、連盟創設に結集した人々によって点された尊い理念と情熱の灯火は一日として消えることなく今日なお輝いていると胸を張って言うことが出来よう。
今日わが国は、世界に冠たる経済大国の地位を享受し、自主憲法制定の機運はかってないほどの高まりを見せている。
屈辱の戦後体制と幻想の平和国家日本との決別も最早夢ではなくなる日がやがてやって来るだろう。
平成十七年二月十一日、建国記念の日、政府はそれが定着したとの理由でその奉祝行事から手を引くこととなった。
もし、此処に、祖国の再建と日本精神の復興を悲願に不屈の戦いを演じた先達たちが居合わせたとしたら、その人々の目にこの変化はどのように映るだろうか。
後者の変化に戸惑いを覚えつつも、その光景には感慨一入のものがあるのではあるまいか。
今日なおわが国には反日的言辞や活動を専業とする学者、マスコミ、市民グループ勢力があるとはいえ、連盟が自ら担った世直し運動の歴史的な役割は、ある意味では十分に果たしたものと言っても過言ではないだろう。
もし今日なお、連盟が新しい役割を自らに課すとすれば、それは、先に見たように外国の理不尽な非難と干渉を招く亡国の自虐的言論風潮を圧倒する、愛国自尊のための不断の戦いと、自衛隊の健全な国軍化である。しかしながら、戦いは、国内だけではない。
再建の厳しい現状に加え、友好親善の細い一本の糸でつながっている国際活動の場で、「戦時慰安婦に対する謝罪・補償・責任者処罰」を要求する対日非難勧告決議案(平成九年十一月 WVFソウル総会 )が罷り通り、「戦時日本軍によって強制労働を強いられた米軍捕慮に対する謝罪・補償」要求決議案(平成十二年十二月 WVFパリ総会)があらわれる現状を虚心に受け止めれば、被告席に立たされる代表を送る以外に手立てのない連盟の前途に、往時の夢を描くことはもはや虚しいことと言わなければならない。
連盟は平成十六年三月、連盟創設以来の「○○支部」の名称を支部好みの通称名「○○郷友会』に改めた。
それは連盟が虚飾をすて現実を直視したことの証であり、自己再生を賭けた固い決意の表明でもある。
連盟再生の道は、往時の夢を決然として断ち、自らの能力を謙虚に見つめ、新しい連盟像を求めて、文字通り新しく生まれ変わる以外にないことを連盟五十年の歴史は訓えている。
連盟がその五十年の栄光を永遠に歴史に刻むことができるかどうか、それは連盟自身の手に握られている。(了)
第六節 新しい出発
連盟は平成二十四年四月一日、一般社団法人日本郷友連盟として新しく出発をした。
(編纂者注)
本部史に登場する旧軍関係者の肩書き経歴については、多くを、依拠した資料の例に倣ったほかは一部を文意理解上の必要性から調査したにとどまる。
このためしかるべき旧陸士海兵の期別、階級、軍歴等への言及は歴代会長の他なべて省略のやむなきに至ったが、何方も戦前、国家と旧軍の重責を担われ、戦後も連盟史にその名を留め措かるべき高名な方々との認識で扱っている。精査は読者の労に期したい。
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