「南コーカサスの国々」を訪ねて 2014.10.22〜10.30 (その2) グルジア・アルメニアの旅 |
人情に厚い国 グルジア バクーからグルジアへは空路で1時間半。 グルジアは人口約425万人で、国民の84%がグルジア人。宗教は75%がグルジア正教徒、経済は観光や果樹・ワインなどの他、原油・天然ガスパイプラインの通過による収益で、人情に厚い国と言われている。 世界では「ジョージア」と呼び名が変わってきており、日本でも近々「ジョージア」に変わるようだ。 グルジア出身の有名人では、スターリン、シュワルナゼ、栃ノ心などがいる。また、グルジアは柔道王国で、世界選手権で団体優勝をしている。 スターリンはグルジア出身だが、ソ連の首脳になってから、祖国の人を大勢殺したので人気が無いそうだ。 温暖な気候に恵まれたグルジアは「カスピ海ヨーグルト」の生まれ故郷。また、ワインは8000年の歴史があり、クレオパトラも愛したと言われ、約500種類のワインがあり、ヨーグルト・赤ワイン・農産物の恵みによりグルジアは長寿国だそうだ。 トビリシ バクーから空路グルジアの首都トビリシに到着。暖かい温泉という意味だそうだ。トビリシはバフタング6世によって開かれた緑の豊かな美しい街で、秋の収穫祭の準備が進められていた。この町にはいろいろな宗教の寺院がすぐ近くにある。 グルジアは世界で2番目にキリスト教を国教とした国で、今回の旅で巡る教会は殆んどすべて世界遺産に指定されている。 最初に訪れたのは、町の中央を流れるムトゥクバリ川を見下ろす岩の上にあるメテヒ教会。 教会の内部にはきれいなイコンが描かれていた。ありがたいことに、旅行中殆んどの教会でイコン等の教会内部の写真撮影が許された。 町を歩いていると、グルジアで有名な「タマダ」という宴会部長の彫刻を見つけたり、美味しいパン屋さんにも立ち寄った。グルジアへの外国からの旅行者はドイツ人が一番多いそうだ。 夕食時にはコサックの舞のような激しい回転のある踊りと、男性プレーヤーによる素晴らしい演奏を楽しみながら「グルジアワイン」を楽しんだ。 アルメニアへの往復 翌朝はアルメニアへの移動で、バスで国境まで行き、10ドルの入国手数料を払って国境を通過した。国境は小コーカサス山脈の尾根沿いの川で、この辺りは雪も降っており、もう冬の寒さだった。アルメニアで2日間観光した後、またグルジアに戻ってきた。 小コーカサス山脈にあるアルメニアとの国境から戻って、高地の牧畜地帯から更に農業地帯を下って再びトビリシに帰った。 ムツヘタの町 昼食後、トビリシの前にグルジアの首都であったムツヘタに向った。 ムツヘタはクラ川とアラグヴィ川の合流点にできた町で、紀元前4〜5世紀に栄えた古都。町の中にあるスヴェティ・ツボヴェリ大聖堂には、グルジア正教を広めた聖ニノが祭られており、地下にはキリストの着衣の一部が埋められているということだった。 軍用道路 軍用道路を通ってカズベキ山へ出かけた。軍用道路は19世紀初頭、ロシア皇帝が南コーカサスを支配するため「北オセチア」のウラジカフカス(コーカサスを征服せよという意味)からトビリシまで、昔のシルクロード交易路をもとに、210kmの道路を整備したもので、現在では流通や観光の目的で使用されている。 アナヌリ教会 軍用道路を進んで行くと、アナヌリ教会に到達した。黄葉の中の教会は一際美しかった。この地は交通の要衝でもあり、聖マリア教会の周囲に城壁が築かれている。 十字架峠 更に進むと「グルジアとロシアの友好の壁」があり、その先に十字架峠(2395m)があった。「十字架峠」には、第2次世界大戦時に捕虜になり、強制労働により多数の死者を出したドイツ兵の墓があった。 ドイツ兵の墓の傍にあるのはグルジア軍のレーダーで、すぐ傍の山の頂上にはロシア軍のレーダーがある。ここはグルジアと南オセチアの国境になっている。ロシアとグルジアは2008年に陸海空軍を動員した「南オセチア紛争」を行っており、両国の関係はあまり良くないようだ。 カズベキ山へ 更に進むと、幸せなことに天候が回復してきた。天気予報では雨であったのにカズベキ山に近づくとなんと雲一つない快晴になってしまった。そして、ついにカズベキ山(5047m)の美しい姿が現れた。 ところで、カズベキ村の写真には赤いパイプが写っているが、これはアゼルバイジャンから送られてきたガスを各家庭に送るガス管だ。ウクライナの情勢でもわかる通り、ロシアにガス供給を依存するといざというときに止められてしまうので、グルジアでは全国的にアゼルバイジャンからのガス管が張り巡らされている。 グルジアにはロシアから友好国であるアルメニアに送るガス管も走っている。 カズベキ山の聖三位一体教会 カズベキ村から4WDに乗って聖三位一体教会(2400m)に到達した。 そこで不肖、中埜和童はカズベキ山を背に、コーカサスの北の空に向けて、ある女性の鎮魂を祈って尺八の音を届けた。 最終日 テラピーのワイナリー観光 カズベキからトビリシに戻った翌日は、いよいよ旅行の最終日。 この日は、グルジア名物のワイナリー観光。葡萄畑が続く中を進み農家に到着。 ワイン作りを見せていただいた後、農家で食事をごちそうになった。 メインは焼いた豚肉で、ワイン、コニャック、チャチャ(葡萄から作ったウオッカ)などをごちそうになった。 加藤登紀子の唄で有名な「百万本のバラ」がグルジア人の画家ニコ・ピロスマニがマルガリータという女優に恋した話をもとに作られたということが紹介され、歌も出て、名酒の助けもあり、昼食は大いに盛り上がった。 グルジアが豊かな農業国であることを確認した良い旅であった。 美女とワインの国 アルメニア アルメニア共和国は人口約310万人で、国民の98%がアルメニア人で、国土は日本の約13分の1。 宗教は大部分がアルメニア正教徒で、経済は農業やダイアモンド等の鉱工業が主で、ワインとブランデーが有名。ハチャトリアンやアズナブール等の芸術家を輩出しており、何よりも「世界一の美女国」という大変魅力的な国である。 1世紀頃トルコのカッパドキアから移って来たキリスト教徒がこの地で信仰を広め、301年、世界で初めてキリスト教を国教とした国だ。 アルメニアは第1次世界大戦中の1915年、オスマントルコにより、当時の人口の3分の1にあたる150万人を虐殺され、また多くの難民が世界に避難していった悲しい歴史を背負っている。 スピタクの町 グルジアから小コーカサス山脈の国境を経て、アルメニアに入った。 山また山の道を移動中にスピタクの町を通ったが、ここでは1988年12月、マグニチュード7.2 の地震が発生した。この地震での死者は約2万5000人、町の高層建築物はほとんど倒壊して40万人を超える人が家を失ったと言われている。 その時、日本の救助隊がアルメニアに来て500人の被災者を救出したそうだ。 2013年3月11日の東日本大地震では、スピタク町の人が日本の東日本大震災の犠牲者のために慰霊碑に建ててくれ、毎年、3月11日には献花やセレモニーを行ってくれているそうだ。 パフパット修道院へ さらに進んでパフパット修道院に立ち寄った。この修道院は10世紀頃に建てられ、アルメニアにキリスト教を伝えた聖グリゴールを祭っている。アルメニアの教会の特徴である大きな十字架が祭られており、建設後には多難な歴史を経たが、現在も人々の信仰の拠り所となっている。 珍しくアメリカ人の旅行グループに出会ったが、アルメニア系アメリカ人の帰郷旅行かも知れない。 鉱山の町近くで昼食 途中、昼食のためレストランに入った。メインはアルメニアで1番美味しいと評判の「焼いた豚肉」で、同行の皆がおいしかったと言っていたが、私は曲がりくねった道で珍しく車酔いしたので、残念ながら食欲が出なかった。この近くには銅とモリブデンを産出する鉱山があった。 セヴァン湖と湖畔の教会 セヴァン湖畔(1900m)の教会に寄ることになったが、夕暮れが迫り、しかも小雨気味の曇り空。 セヴァン湖では「ます」などの魚もよく獲れるそうだ。 湖に近づくにつれ、奇跡的に天気が回復し、夕日に輝く教会を見ることができた。 首都エレバンに到着 エレバンに到着し、「ホテルメトロポール」に宿泊。エレバンからアララト山を見るのが楽しみの一つだ。ホテルの正面に「ARARAT」のサインが見える。チャーチルが愛したと言われる最高級コニャック「ARARAT」がここで製造されている。 アララト山とホルビラット修道院 アララト山(5165m)は、旧約聖書でノアの方舟が流れ着いた山とされているが、現在はトルコ領になっている。このホルビラット修道院からすぐ近くにトルコの国境とイランの国境がある。アルメニアの人達はいつの日かアララト山がアルメニアに帰ってくることを望んでいる。 このホルビラット修道院には聖グリゴールが布教活動をしてアルメニア国王に閉じ込められた牢獄がある。その後、国王は聖グリゴールを認め、世界で最初に国教にしたという歴史がある。教会の中には聖母の絵が飾られていた。 エチミアジン大聖堂でのミサ エチミアジン大聖堂はアルメニア正教の大本山で、ちょうど日曜日の朝のミサを見ることができた。敬虔な信者達が参拝しており、神父の言葉に続き、聖歌隊の美しい歌声を聴くことができた。次いでリプシメ教会に行ったが、ここでも日曜ミサを見学することができた。 ゲカルド修道院 昼食は緑豊かなレストランで、セヴァン湖で獲れた立派な「鱒のかば焼き」をいただき、その後、修道士さんが岩山をくり抜いて造ったゲガルド修道院を訪問。 キリストの脇腹を突いた槍の一部が発見されたのでゲガルド(槍)と名づけられたそうだ。 エレヴァンの町へ 教会詣でを終えてエレヴァンに戻り、町の中央にカスケードというモダンアートとエスカレータを組み合わせたソ連時代のダサい施設を観光した。あまり評価に値するものは無いのかなと変に納得していたところ、最後に素晴らしい芸術に出会った。 やはり、アルメニアは世界一の美人国だった。 夕食はアルメニア料理 メインディッシュは「ロールキャベツ」と「ロールブドウの葉」、そして何より「アララトコニャック」を楽しんだ。最高の盛り上がりだったが、残念ながら写真を取り損なった。 食後、中央広場に行くと、世界の音楽にあわせた噴水ショーが行われており、噴水ショーを見ながら楽しく語りあった。 アルメニアは貧しい国と言われているが、他民族による度重なる征服、大虐殺、宗教の弾圧を乗り越えて、人々は信仰心が篤く、農業国の特長を活かして葡萄をはじめとする果物や野菜が豊富で、心豊かな国だと感じた旅であった。 カタール・アゼルバイジャンの旅へ 南コーカサスの国々を訪ねて トップページへ |