終刊号の発行に寄せて  
日本郷友連盟 会長 森 勉
 日本郷友連盟は、大東亜戦争の終戦後の荒廃した日本国の再生を目指して全国各地で立ち上がった旧軍役関係者によって、日本が独立を回復して間もない昭和三〇(一九五五)年に設立されました。
それから七〇年の歳月を経て、我が国は世界有数の経済大国となり、国際政治の場においても主要国の仲間入りを果たし、世界秩序の維持に重要な役割を担うまでになりました。その陰には、日本郷友連盟を立ち上げた旧軍役関係者達の日本再生の熱い思いがあったことは、言うまでもありません。戦後の混乱時に立ち上がった先達の思いの大半は達成されたと言えるでしょう。

 和を尊ぶ日本古来の価値観は世代を超えて確実に受け継がれ、形を変えて次の時代を担う平成、令和の人々の心の中で生き続けているものと確信しております。
日本人の手による憲法の制定( 戦後の占領期にG H Q(連合国軍最高司令官総司令部)で短期間に起草した草案を基にした現行憲法の廃止)、並びに日本国の国難に際してその身を捧げた英霊を祭る靖國神社への天皇陛下御親拝を見ることができていないことは誠に残念ではありますが、旧軍役関係者が郷友連盟の活動の場からほぼ去った創立七〇年の節目をもって日本郷友連盟の活動を終了することと致しました。

 これに伴い、長年ご愛読いただきました『郷友誌』も終巻となります。
日本郷友連盟が一貫して掲げてきた「国防思想の普及」、「英霊の顕彰」、「歴史伝統の継承・助長」の三本柱の広報手段としての『郷友誌』の役割は、記事の寄稿をいただいた方々並びに読者皆様のご理解とご協力のお陰をもちまして、その役割を果たし、今日まで発刊し続けることができました。長年ご購読いただきました皆様、記事を提供いただいた皆様等に感謝の念を表したいと思います。読者皆様等の支えの下、編集に当たってこられた代々の編集長はじめ編集関係者の努力に敬意を表し、その労を多としたいと思います。
 本終刊号は、「日本郷友連盟の七〇年の歩み」を概観するものとなっています。また、長年郷友連盟を支えてこられた方の思いの一端を掲載するとともに、最後に、川柳、俳句、和歌のコーナーに長年投稿されてこられた方の最後の思いを見ることができるものとなっています。本誌を末永く保存いただき、日本郷友連盟の足跡を顧みていただければ幸いです。
今年度末をもって日本郷友連盟の活動は閉じますが、全国各地の郷友会の多くはそれぞれの地域での活動を継続しますので、引き続きお見守りお願い申し上げます。


「老兵の繰り言」     名誉会長 寺島泰三
 思い起こせば私が日本郷友連盟と関わりを持つようになりましたのは今を去る27年前の平成10年のことでありました。先代会長の堀江正夫大先輩から電話を頂きお伺いしたところ、僕の後の会長を引き受けて欲しい旨の強い要請を頂きました。
それまで連盟に縁もゆかりも関心も全くなかった若輩の私にとりましては正に青天の霹靂であり、当初は固辞いたしましたが内外からの懇望止みがたく遂にはお引き受けすることとなり、翌平成十一年に会長を拝命した次第でありました。

 会長就任時各県の郷友会長さんは殆どが私より年長者であり、会員も歴戦の勇士や私より先輩も多くおられ、質量共のジェネレーションギャップの解消が喫緊の課題であり、また「郷友」を「キョウユウ」としか読んでくれない世代に日本郷友連盟を如何に認識して貰うかも大きなテーマであり、堀江前会長も「再建五カ年計画」を策定され、鋭意これが解決に腐心しておられました。

 爾来令和五年に森勉現会長に継承して頂くまで二十四年間という永きにわたって会長を仰せつかって参りましたが、もとより浅学非才の身であり、そうそうたる歴代会長の軍歴戦歴には及びもつかず、自分なりには働いた積りでも自らの力不足故各方面に多大のご迷惑をおかけしたことを深くお詫び申し上げるものであります。
またこの間全国多くの会員の皆様からは熱いご支援ご協力を賜りました。また連盟に共感して頂いた多くの方々から暖かいご支援も沢山頂戴いたしました。これらに対し心からお礼を申し上げ衷心より感謝申し上げる次第であります。

 ご案内の如く連盟は創設以来「自主憲法の制定、国軍の創設」を究極の目標とし、「国防思想の普及」「英霊の顕彰」「歴史認識の継承」を活動の三本柱として活動を継続しており、私も在任間それらの実現を期し会員の皆さんとともに微力を尽くしてきた想いがあります。
しかし現実は事志と異なり占領軍によって与えられた現憲法を一字一句変えることなく七十有余年遵守してきたことには内心忸怩たる思いがしてならず、慚愧に堪えないものがあります。

 英霊の顕彰については昭和五十一年以降途絶えてしまった天皇陛下の靖國神社御親拝を再興して頂くべく各種活動を継続して参りましたが、現状はそれへの前提となるべき総理大臣や国会議員の靖國神社参拝が国民の靖國神社への関心の高まりとは裏腹に低調傾向にあり、結果御親拝が中断されていることは誠に残念で甚だ遺憾に思われてなりません。

 また、ロシアのウクライナ侵略、中国の台湾周辺や我国周辺での動きを含む太平洋への軍事的進出の動きなどに刺激され、防衛法制の成立や防衛予算の増額など防衛力の増強に励んでいることは肯定されるべきでありましょうが、憲法九条問題や軍事アレルギーなど国民の真の国防意識は未だ十分とは云えず国家として更なる努力が必要でありましょう。

 今後の我が日本の前途は内外ともに厳しいものが予想されますが、悲観は致しません。
日本国はそして日本民族は賢明な国民であり、民族であります。
戦後の荒廃から見事に立ち直り世界の主要国の仲間入りを果たした日本、スポーツ、文化、芸能、芸術などあらゆる分野で世界を股にかけて活躍する日本の若者の姿、世界の人々を魅了する日本の食文化、繊細なもの造り文化、はてはおもてなし文化などそこには和を尊び、努力を惜しまず、仲間を大切にする日本人の気質が受け継がれ息づいています。

 それらはSNSやAIといった新たな道具を駆使する若者によって形を変えて生き続けることでありましょう。
このような日本の未来を担う若い人々が、時代に応じた新しい感覚で私どもが先輩から受け継いできた遺産を引き継ぎ近い将来見事に花開かれんことを切に期待するものであります。
「後に続くものを信ず」と云われた先達の言葉を胸に若者に期待し老兵は静かに消え去ろうと思うものであります。

 終わりに改めて永年にわたり皆様から賜りました心温まるご支援、ご協力、ご厚誼に衷心からの感謝を申し上げ、意を尽くし得ませんが老兵の繰り言とさせて頂きます。
 日本国万歳、天皇陛下万歳、自衛隊万歳
       そして万感の思いを込めて
           日本郷友連盟万歳


郷友連盟について― 感謝あるのみ ―  特別顧問 新井光雄 
一 入会の動機
 第二の就職(防衛産業)の勤務が終わりに近づいた頃,武器科の先輩から日本郷友連盟(会長、寺島元統幕議長)への入会を勧められました。日本郷友連盟に関する知識は殆んどありませんでしたが、入会させて頂きました。
今から思えば大変有難い話を頂いたと思っております。定年後のこの時期はややもすると、ルーズな生活になり勝ちですが、郷友連盟にお世話になったお陰で、規則正しい生活を送ることが出来、大変有意義な期間を過ごすことが出来ました。

二 日本郷友連盟の誕生
 日本戦友団体連合会は地域に密着した自主的活動を主体とする各地方団体の連合組織でしたが、昭和3 1年の総会で会名を日本郷友連盟に改めることに決し、同年1 0月正式に総理大臣より「社団法人・日本郷友連盟」として認可されました。
日本郷友連盟の三大目的事業は「国防思想の普及」「英霊の顕彰」「歴史伝統の継承助長」であり、日本精神の復興と美しい日本の伝統蘇生を悲願に国民運動を重ねて発展して参りました。

三 理事長としての思い出
 入会して2年後に理事長を拝命しました。理事長は会長の命を受け、会務を掌理し事務局を統括することが任務であります。
理事長在任間は会長のご指導の下、優秀な理事及び事務局員の皆様の協力により、何とか任務を遂行することができたものと深く感謝しております。
理事長(専務理事)在任間には印象に残る事案はいろいろありましたが、次の3つは特に印象の強かった事案であります。

【理事会】
 理事は陸、海、空自衛官のOB及び一般の方からなり、それぞれ任務を担当して頂いております。
毎月、行われる理事会は楽しみで、理事の方が担当された任務の報告及び関連する情報等を聞いて大変勉強になり、また、他の友好団体の動き等も知ることができました。
理事会終了後の希望者による飲み会は楽しいひと時でコミュニケーションも深まり雑談によって、いろいろな話題に接する良い機会でした。
【機関誌「郷友」】
 「郷友」は日本郷友連盟の広報活動の一環として、会の活動やコミュニケーションを主体に本部と都道府県郷友会(支部)会員読者とを結ぶ月刊の機関誌として刊行されてきました。後に隔月発行になりました。
会員読者の高齢化を考慮して活字の大きさに配慮するなどきめ細かい気配りと読みやすい内容に仕上げる等、蝙集担当理事及び関係された皆様の努力に感心致しました。
【賛助会員】
 連盟の活動は個人会員と賛助会員の会費等によって支えられています。特に、賛助会員の貢献は大きく、連盟としては賛助会員数を増やすことが望ましいこ とであります。これを受けて各社(防衛産業が主体)に入会のお願いを行いました。
企業の担当者及び役員に連盟の概要及び活動状況等を説明して入会をお願いし、賛同されて入会して頂いた企業には感謝の限りでした。

四 結 び
 政府及び北連協等主催の「戦没者追悼中央国民集会」「全国戦没者追悼式」「北方領土返還運動」等に他の友好団体の皆さんと共に参加して、会の活動に協力し、多くの皆さんと交流を深めることが出来たのも大変有意義なことでした。
郷友連盟十数年間の在籍間は意義ある充実した生活を送ることでき、心から感謝しております。


思い出すまま    特別顧問  安元百合子 
 郷友連盟との最初の出会いは平成のはじめ頃、当時、郷友歌壇の選者をしていた夫に誘われて参加した直轄郷友会の講演会である。

【教科書調査】
 その後、二年先輩の友人が郷友連盟で中学校の教科書の内容について分析調査をしているとの話を聞き、是非参加したいと友人に頼み込んだ。友人の尽力により平成七年四月の研究会に参加させて貰うことができ、初めての参加なのにいろいろ発言したように思う。その後、数日して当時の理事長さんから一通の手紙をいただいた。それは「教科書研究だけでなく理事になってほしい。いずれは婦人部長にも」との有り難い内容であった。そして平成七年五月から理事としてお世話になり今日に至っている。

 平成七年は郷友連盟創立四十周年にあたりその記念行事や十年後の五十周年を見据えた行事などが理事会の議題になっていた。
教育研究委員会は,今田委員長を中心に六人の委員で、中学校の社会科教科書の内容の調査を行った。当時の歴史や公民の教科書には「従軍慰安婦」や「南京虐殺」など誤った記述が多くあり、それらの誤った記述を指摘して文部科学省や心ある政治家に陳情すると共に、教科書会社にも意見を申し立てた。そのため委員は担当した教科書について問題点を各自調査をし、結果を研究会で更に検討した。その結果を冊子にまとめたので題名を記す。国民に愛国心を育てることを研究の中心課題として教科書の検討は進められた。
平成 十二年 「中学校 社会科教科書の改善」
平成 十三年 「道徳教育への提言」 美しい日本人像を教える
平成 十五年 「ジェンダーフリーは家族・国家を滅ぼす」男女共同参画社会推進問題の基本的誤り
平成 十六年 「日本の再生は愛国心教育にあり」
平成 十七年  「第2年次 中学校歴史・公民教科書の改善」
平成 十八年 「第3年次 新編中学校歴史教科書は愛国心を育成するか」
平成二十二年 「歴史教育を歪める近隣諸国条項」
平成二十三年 「小学校学習指導要領に例示された歴史上の人物について」
平成二十四年 「これで、愛国心が育つか?」
平成二十五年 「国民の物語となる歴史教科書を」
平成二十六年 「国民の物語としての日本の歴史」
平成十二年に全国組織を持つ団体に呼びかけて教科書の改善をめざす団体「教科書改善協議会」(会長 三浦 朱門氏)が発足した。教科書改善協議会には、郷友連盟の代表として参加させていただき教科書の何が問題なのか検討した。

【女性部研修】
 平成十年に前婦人部長の岡田玲子様の引退により、その後を引き受けることとなった。
女性部全国研修会は、毎年秋に実施され、開催県のきめ細かな配慮のもとに会議、懇親会、見学が行われ、女性の意識を高めることに役立った。開催は、平成十一年は愛媛県道後温泉、十二年は石川県金沢市、十三年は東京、市ヶ谷、十四年は三重県鳥羽、十五年群馬県伊香保、十六年は福岡県福岡で開催された。いずれの研修会にも十三、四支部より七十人前後の参加があった。平成十九年の滋賀県の研修会では「男女共同参画の落とし穴」という演題で講演をさせて頂いたことは望外の光栄であった。平成十六年に副会長となり、二十三年まで務めさせていただいた。

【郷友歌壇選】
 年齢を重ねたこともあり理事を辞めるにあたり、永野編集長から、郷友歌壇の選者をとの依頼があり、現在に至るまで努めさせいただいた。
振り返れば三十年にわたり郷友連盟の会員としていろいろ学ばせて頂いたことに改めて感謝する次第です。平成十二年にはインド研修旅行に、十三年には東南アジア研修旅行に参加して得難い経験をしたことも忘れられない思い出である。
いろいろお世話になりました。有難うございました。


「郷友」の終刊に際して   顧問・郷友俳壇選者 有馬澄廣
 「平成二十五年三・四月合併」を手にしているが、この号は、私が前担当者の故山崎芳堂氏の後任として郷友俳壇の選者を引き継いだ初号である。今思い返してみると、自衛隊俳句誌「栃の芽」の同人であり重鎮であった山崎氏のあとを引き継ぐなどとは、思いもよらなかったのである。投句者と「郷友」編集者にご迷惑をかけながらも、何とかこの三・四月号の通巻七五六号まで七三号に亘って担当させて頂いたことに感謝している次第である。

 「郷友」誌は、国の安全保障や防衛問題に関して専門的な見地から論文を掲載して、世論を啓発してきたと承知しているが、内容的には一般の方々には、馴染み難い面があると思われる。そのような中にあって、郷友俳壇は、一種のオアシス的な、位置づけであると思われるが、果たしてその目的に合致していたかどうか、甚だ忸怩たるものがある。投句者も高齢化が進み、世代交代を余儀なく認めざるを得なかったことも事実である。しかしそのような状況の中にあって、最後まで投句いただいた方々には、この場をお借りして心より感謝申し上げたい。併せて、「郷友」誌の編集に携わって来られた先輩諸氏に対しても深い敬意を表させていただきたい。

 令和六年五月に開催された日本郷友連盟定時総会において、森会長は、連盟の歴史的な生い立ちから、連盟としての活動状況等を、時代の変遷を見極めつつ縷々述べておられたが、連盟としての活動に幕を閉じることの無念さが、随所に表れていたことを感じ取ったのは、私一人ではあるまい。「日本郷友連盟は、今年度末に活動を終了するが、これにより連盟が掲げてきた理念、目的はいささかも変わりない。今後とも地域の特性に応じた活動を継続する各県郷友会へのご支援、ご協力をお願い致したい」旨の式辞の締め括りはいまだに耳朶を離れない。森会長をはじめ、関係各位のご労苦を多とするとともにそれぞれのご健勝を心よリお祈りして、意を尽くせないが結びとさせていただきたい。


「郷友」終刊に寄せて ― 日本精神の原点を思う ― 理 事  袴田忠夫
 令和六年五月一五日、日本郷友連盟会長森勉が定時総会における式辞で述べられたように、今年は、日本郷友連盟の前身である日本戦友団体連合会の結成から七十年目の節目に当たり、この四分の三世紀に迫る長い年月の間、「防衛思想の普及」、「英霊の顕彰」、「光栄ある日本の歴史・伝統の継承助長」を三本柱とした郷友連盟の活動は、時代の変化に対応しつつ、延々と続けられてきました。特に、筆者は、この三本柱を基幹とした日本郷友連盟の実践信条である「英霊を顕彰する活動に、常に先頭に立って行動する」、「皇室を尊び、日本の歴史と伝統を大切にし、これを次世代に伝える」を念頭に当会誌郷友に寄稿してきたつもりです。
英霊の顕彰については、昭和六一年の「八月十五日」と題された昭和天皇の御製
  この年のこの日にもまた靖国の
   みやしろのことにうれひはふかし
に昭和天皇の「靖国神社参拝」に対する万感の思いが察せられます。


 筆者は、以前、「靖国神社参拝」について、会誌郷友に「靖国神社に戦犯は存在しない」と題し、次のような寄稿をした。
〈講和条約発効後、今から六〇年程前の国会において、当時の日本人及び日本の政治家の方々は、国民の総意として、東京裁判で判決を受けた戦争犯罪者を国内法上の犯罪者としなかったのであります。また、A級戦犯として有罪判決を受けた重光葵元外相は、釈放後に副総理にまでなったのであり、しかも重光副総理はその後、一九五六年一二月、日本の国連加盟式典に日本代表として出席、国際社会復帰の声明文を読み上げ、万雷の拍手で迎えられ、まさに戦勝国が作った「国際連合」の場で大歓迎されたのであって、このことはすでに戦勝国も東京裁判における戦犯について、犯罪人とみなしていないということであります。そして、A級戦犯としてすでに処刑された東條首相以下七名の人達も公務死すなわち戦死と同等に見なされ、遺族の方々に遺族年金及び弔慰金が支払われるとともに一九七八年(昭和五三年)には靖国神社への合祀が決定されたのです。したがって、靖国神社に祀られている英霊の方々の中に、A級戦犯といわれる戦争犯罪人は存在しないのです。・・中曽根元総理にいたっては、一九四七年から政治家をされておられたわけですから、一九五二年から一九五三年にかけて国会で成立した「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」等の決議をご存じないはずがないのです。中曽根元総理は、ご自分が総理のときに中国に配慮して靖国参拝を止められましたが、当時の国会での決議を知りながら、その後A級戦犯の分祀論を述べられているなど、その責任は余りにも重いといわざるを得ないのではないでしょうか。〉

 また、拙稿「昭和天皇のご巡幸(二)」(会誌郷友 令和七年一・二月合併号に掲載)で記述した「昭和天皇の戦争責任」については、筆者が平成二十四年、会誌郷友に「大東亜戦争のその後」と題し、「昭和天皇の戦争責任」の項目で次のように寄稿した。〈大日本帝国憲法では、「天皇は、政治上の責任は負わない人」というのが、憲法上決められていました。天皇に戦争責任がないことを主張した「東条英機宣誓供述書」にも述べられていたように、天皇は「統治権の総攬者」であり「統帥権」を有す元首であるにしても、個別の政務については、国務大臣が、軍務については、参謀総長・軍令部総長が輔弼(助言して決める)あるいは輔翼(補佐する)して責任を負うこととされていました。天皇が閣議決定を覆したり誘導すること、すなわち政治権力を行使することは、事実上禁止されていました。昭和天皇は、日米開戦にいたる昭和十六年の四度の御前会議でも、一言も発言されておらず、唯一の例外が、九月六日の御前会議で詠みあげられた「よもの海 みなはらからと 思う世に など波風の たちさわぐらむ」という明治天皇の御製だけです。

 しかしながら、昭和天皇は敗戦に対して、道義的な責任を大変重く受け止められておられました。昭和天皇は、戦後、三度にわたって退位の意を表されているのが、なによりの証であります。一回目は、敗戦直後の昭和二十年八月二十九日。昭和天皇は木戸幸一内大臣に、次のように打診されております。「戦争責任者を連合国に引き渡すは、真に苦痛にして忍び難きところであり、自分一人引き受けて、退位でもして収めるわけにはいかないだろうか」(木戸幸一日記)。これに対し、木戸は即座に諫止しています。退位すると戦犯にされ、天皇という存在そのものが、否定される恐れがある、と考えたためです。二回目は、昭和二十三年十一月十二日の東京裁判最終判決を控えた時期。昭和天皇は、この判決を期して退位する意向だった、と伝えられます。しかし此の時は、マッカーサーの反対で思いとどめられさせます。マッカーサーにとって昭和天皇は、占領政策を滞りなく遂行する上で、欠くべからざる存在だったからです。三回目は、講和条約を控えた昭和二十六年に、翌年の条約発効後に退位されることを希望された、と伝えられております。独立国家への回復と共に敗戦責任を取り、立太子礼(昭和二十七年十一月十日)がすみ次第退位する、と強く内閣に要望されたそうです。しかし此の時も、吉田茂首相の断固とした反対により断念しております。こうして、昭和天皇は退位を諦め、在位のまま、黙して「敗戦責任」を背負う生き方を、選ばれたのです。

 昭和天皇の「A級戦犯で処刑された者」たちへの思いについてですが、第一回目の退位の意を、木戸内大臣に「戦争責任者を連合国に引き渡すは、真に苦痛にして忍び難きところであり」と述べたように、東條元首相らが東京裁判で裁かれている間、昭和天皇の懊悩は尋常でなかったといいます。そして、天皇を庇う“A級戦犯たち”について、昭和天皇は「裁判にかけるといっても、皆、国のために一生懸命にやった者ばかり」と語っており、東條元首相以下七名が、昭和二十三年十二月二十三日に処刑された日、昭和天皇は、目を真っ赤にして涙したといいます。昭和天皇は、ご自身一人で、戦争責任を果たそうという覚悟をもたれていました。だが、実際は東條元首相はじめ、天皇を庇う臣下の者たちの死によって責任は償われ、ご自身は生き残られたわけであります。このことの重い意味に、陛下は思いを致さないはずがありません。だからこそ、東條元首相の孫である東條由布子氏が語るように、昭和天皇は靖国神社参拝をやめられてからも、毎年、お使いを派遣し、東條家への「御心配の御伝言」を託され続けられたのであります。〉

 「皇室を尊び、日本の歴史と伝統を大切にし、これを次世代に伝える」については、筆者がこれまでの会誌郷友で「天皇と日本の武士道精神」、「焚書・大衆明治史(菊池寛著)」、「焚書・皇室と日本精神(辻善之助)」等と題して度々紹介するとともに、日本郷友連盟が平成二六年に編集した「国民の物語としての日本の歴史」(日本郷友連盟ホームページ掲載)においては「若者に誇りある我が国の歴史、特に近現代史の真の姿を知ってもらうための一助としてまとめたもの」として記述されています。近年、特に令和の時代になってから戦後GHQによって焚書とされた七千冊以上の書籍が次々と復刻されていますが、筆者はこれらの書籍が復刻されるたびに日本郷友連盟が編集した「国民の物語としての日本の歴史」は正に的を得た真の歴史であると自負しているところであります。

 日本国民にとって、「皇室の存在」とは何か。それは正に日本精神の原点とも言えるものであり、日本の歴史と伝統の鏡ともいえる存在であります。明治天皇は近代国家建設にあたり、世界に冠たる道義国家を目指し、五箇条の御誓文を定められ、国民に対しては軍人勅諭と教育勅語を下賜されました。特に、軍人勅諭は、武士道精神の原点とも言えるものであります。そして、これまで筆者が度々述べてきた日本軍が国際法を順守し、熾烈な戦闘下であっても各所で武士道精神が発揮されたのは、日本の武士道精神の根幹にある敵を敬うという武士道精神でありました。日本では、なぜこのように「敵を敬う武士道精神」を貫くことが出来たのか。それは、明治天皇の御製、「国のため あだなす仇は くだくとも いつくしむべき 事な忘れそ」の精神を忘れなかったからであります。

 また、拙稿「昭和天皇のご巡幸(一)」(会誌郷友 令和六年十一・十二月合併号に掲載)の冒頭で記述した、終戦後の昭和天皇の全国御巡幸が、日本史上最大の危機をどのように乗り越えたのか? 昭和天皇が日本人に残したかったメッセージは何なのか? そもそも日本にとって、天皇と国民はどのような関係なのか? 昭和天皇の全国御巡幸について理解できるだけでなく、世界中のどこにもない日本という国のアイデンティティをありありと実感できるのではないでしょうか。

 本寄稿文を書き上げた当日、自民党の次期総裁が決まりました。新しい総裁は、靖国神社に一度も参拝したことがなく、また、皇統についても確固たる信念をお持ちでない方が選出されました。
代表選で敗れた高市氏は、「靖国神社参拝」について以前から「靖国神社は戦争を美化する施設ではなく、外交問題にされるべきではない。私は自分の気持ちに正直でありたい」とし、総理大臣の参拝に対する中国や韓国の反発については「途中で参拝をやめるなど中途半端なことをするから相手がつけ上がる」とまで述べています。総裁選直前の靖国神社に関するインタビューにおいても「靖国神社はとても大切に考えてきた場所だ。公務死された方々に尊崇の念をもって感謝の誠を捧げるのはどこの国でも普通のことだ。国策に殉じ、自分たちの祖国を守ろうとした方々に敬意を表し続けることは希望するところだ。総理になったら、“内閣総理大臣高市早苗と記帳する」と明言されました。さらに、「日本は主権国家であり、言うべきことは言う。韓国の反発に対しては貴国の追悼施設にも参拝に行きたいと言う。同盟国にはこちらの立場を説明し、参拝できる環境を作る」と述べています。さらに、皇統の皇位継承のあり方ついては、皇統の根幹ともいえる「男系男子による継承」を主張しています。
他の日本の国会議員の方々も、一日も早く、「戦後レジーム」から脱却され、日本の総理大臣が堂々と靖国神社に参拝し、昭和天皇の万感の思いであった天皇陛下による「靖国神社御親拝」が実現できることを心から願うものであります。