国後択捉ビザ無渡航体験記(中)

郷友連盟常務理事 細  稔    

冨田 稔

 

【国後島概観】 国後島は、最南端が野付半島から約16q、長さおよそ百十

qの細長い形で北東から南西方向に伸びた島です。

面積は約本州・北海道・九州・四国の四大島を除けば択捉島に次いで日本

二番目に大きな島です。北隣の択捉島とは近いところで約23q離れています。

国後島は、千島火山帯に属する典型的な火山島であり、代表的な火山には北方
四島で最高峰の茶碗を伏せた形の爺々岳 (1819b)があります。

この島は、本来、我が国固有の領土であり、現在でも北海道根室支庁管内の

国後郡であり、その下に泊村と留夜別村の二村が置かれています。


しかし、1945年9月1日にソ連軍が上陸して以来、現在に至るもロシア
実行支配(占領)下にあり、ロシアの行政区画ではサハリン州に属し、国後島

色丹島歯舞諸島をもって「南クリル地区」と称しているようです。

曾ては約7千3百人の日本人が住んでいましたが、今は約6千6百人のロシア人

が住んでいます。

島の中心は泊村古釜布(ロシア名ユジノ・クリリスク)で、島に居るロシア人の

半数以上がこの地域に住んでいます。

この古釜布に上陸した我々訪問団は「友好の家」での交流行事の後、古釜布周辺を

視察しました。

 
【古釜布見て歩き】古釜布の町の見学を中心としたグループ、材木岩という景勝

地を目指して海岸を歩いたグループ、自然一杯の山道を温泉目指してハイキングを

したグループの3グループに分かれて島内を視察しました。

自然が豊かなことは、沖縄本島より大きな島に7千人弱しか住んでいないことから

も想像できます。

古釜布の家並みを外れると未舗装の道路以外ほとんど人工物にお目にかかれません。

2個グループが自然探索に出かけた後、市街見学グループは、発電所に向かいました。

 

<人道支援発電所 ―― 電力事情> 古釜布の町外れの小高い場所に日本が建て

たディーゼル発電所があります。


各800キロワット四基の発電機は、古釜布の人々にとって貴重なものでしょう。

我々の視察した日に稼働していたのは1基だけでした。

当日一人で勤務に就いており我々の説明に当たってくれたペシェポノフ技師長が

質問に答えてくれたところによると、故障や燃料の不足等が原因ではなく計画的に

停めているとのことでした。

同地域には約4千人が居住しています。一家族5人と仮定すると800世帯となり、

一世帯あたり約1kw/日になります。古い発電施設も使っているとのことですが、

それで古釜布を中心とした地域の電力を賄かなえるのか疑問です。

この値は現在の日本での一世帯消費量(平均約10kw/日・世帯)の約10分の

1です。ちなみに、日本の昭和30年代の消費電力は2〜3kw/日・世帯だった

ようです。

クーラー不要で、昼の長い北の夏のこと、贅沢家電の無い島の生活は、1台の発電

機で賄えるのかもしれません。




 

<小さな博物館> 古釜布中心街のアパートの地下の一角にある「郷土史博物館」を

見学しました。


60周年記念特別展示とのことで、入り口の部屋には美しい写真パネルや地元出身の

有名な画家の絵が展示してありました。

次の部屋には国後の自然(地質、動植物)、廊下に縄文時代の石器等、そして奥の

部屋がアイヌや日本人との交わりに始まるロシア人進出以降の近・現代史の部屋と

いう小さな博物館でした。


展示物には戦争や領土問題を感じさせない淡々としたものがあり、館長のスコワチィ

ツナ女史(写真中央)とフュードロビナ自然研究員(写真右)の熱心な説明には、

自分たちの住む島を誇りに思う、作り物でない自然な気持ちが感じられました。

元島民の日本人、そして現在島に住んでいるロシア人、善し悪しにかかわらず、

ともに国後の歴史の流れに身を置いた人々です。

とは言え、国後の60周年は、我々日本人にとって、不法占領下の60年間であり、

忘れるわけにはいきません。

 

<カフェ・ロシンカ> 博物館長に別れをつげて、次に向かったのは昼食場所の食堂

です。博物館の建物から、路地を2〜3ブロック歩いたところにありました。

アパートの壁に博物館よりは少し派手な看板が掛かっています。

「カフェ・ロシンカ」です。ロシア語の読めない者には、外見だけで食堂だとはとて

も思えません。メニューは、ボリシチ、サラダ、ペリメニ(水餃子風)にパン、

中々の美味で量も多く、満足しました。

ちなみに、他の2つの野外行動グループは、大きなパンに生野菜とハムを挟んだ素っ気

無い昼食でした。


 

<自然と共生するロシア人> 温泉は、北海道の山奥のクマザサで脱衣所を囲った

自然の温泉を想像した方が良さそうです。

それでも自然が唯一の娯楽である現地のロシア人にとって最高のリゾート地のよう

です。車の入らない山道を温泉に向って歩いていると、やはり温泉目当ての家族連れに

よく出会うそうです。

 

古釜布から北東に数キロ海岸を車で走ったところに小川が海に注ぎ込んでいる場所が

ありました。幅数メートルの河口付近の水中が真っ黒になっています。

よく見ると鱒が重なり合って群れていました。その川岸で家族らしいロシア人数人が

バーベキューの後片付けをしていました。短い夏の一日、自然を専有して家族だけで

のんびりと過ごす姿は、東京圏に住む身には何とも羨ましい光景です。

何故、「日本人でなく、ロシア人が」という思いが脳裏をかすめましたが、属する国に

かかわらず厳しい冬に耐えた人だけの特権なのでしょう。


 

<夏草の中の日本人墓地>

各グループとも古釜布郊外の日本人墓地を参拝しました。元島民の方の墓参時や、交流

事業での訪問時に清掃をしているそうですが、北の島の夏草は、どんどん伸びてしまう

ようです。墓は、この地が約60年前そして今も日本人の土地である証。

束の間ですが、歴史の重さを感じつつ墓の周りの草を引きました。




 

〈商店街〉各グループとも、最後の課題は古釜布唯一の商店街での買い物です。

写真の左右数軒が店で、道にいる人々はほとんど研修団の日本人です。

この後、友好の家で夕食会、帰船、択捉島への深夜の航海です。


【日本最大の島 択捉島】国後水道(ロシアエカチェリーナ海峡 )を前方に

見ながら眠りに入り、眼が覚めると連絡船「ロサ・ルゴサ」は、既に目的地である

紗那の沖合に停泊していた。

択捉島は、面積約3千190平方q(沖縄本島のおよそ2.7倍)あり、本州・

北海道・九州・四国を除く日本最大の島です。

終戦時は日本人約3千6百人が住んでいましたが、現在はロシア人約7千名が居ます。

日本政府が領有権を主張する日本最北端の地です。

太平洋戦争真珠湾攻撃を行った機動部隊が、出撃直前に最終集結した単冠湾(ひと

かっぷわん)がこの島の太平洋側中央部にあります。

我々が上陸した紗那は、単冠湾とは反対のオホーツク海側の要所です。




 

〈紗那上陸・行政府〉

紗那の港も、艀での上陸でした。海岸には錆果てた座礁船があり、港の入口では

防波堤代わりに使われていました。また、よく見ると海岸の所々に戦車砲が見えま

すが、これも錆果てて放置されているものです。予想以上に軍事色を感じさせない島

にあって、ソ連時代の軍事基地化を思い出させる数少ない跡形でした。 

紗那港は、古釜布に比べればやや大きな港ですが、やはり5百トンクラスの連絡船が

接岸できません。

港外には我々の連絡船の他に数隻の貨物/貨客船が投錨しており、荷揚げの艀を待っ

ているようでしたが、目に見える艀の数は少なく、活気は感じられませんでした。

我々の上陸も、艀待ちで約30分遅れの10時半頃になってしまいました。

港の中で岸壁の工事をやっていましたが、浚渫工事の気配はなく当分は大型船の接岸は

無理のようです。

岸壁には、昨日同様に四輪駆動車の車列が待っていました。

上陸して最初に案内されたのは、クリル地区の行政庁舎です。カルプマン クリル地区

行政府長、レチコ クリル地区議会副議長等との交換行事を簡単に済ませ、紗那の

日本人墓地に向かいました。

紗那日本人墓地の草刈・墓参〉 紗那の墓地は、港外の丘の斜面に広がっていま

した。ロシア人墓地と共用で、一部手入れはされているようでしたが、草某々で奥の方は

墓石が隠れていました。


肩掛けエンジン式の草刈り機は若い人が使い、我々は鎌を片手に樹木の間の狭いところに

立つ墓石を探しました。刻まれた名前も風化して読めないような墓石が沢山あります。

一つ一つ、息が出来るように、日に当たるように、草を取り除いていくと、そこに間違い

なく日本人が居たし、今も息をしているような感じがしてきます。

約1時間弱で作業に切りをつけ行政府前の広場に戻りました。

〈友好ミニ運動会〉 広場で待っていたのはミニ運動会でした。今日は日曜日だが、

鮭漁の最盛期で働き手は手が離せないとのことでしたが、婦人や青少年の方が三々五々

集まってきました。あめ玉探し、二人三脚、ボールお玉のせ運び、パン食い競争、

玉入れ、ロシア側の企画で鉄アレー挙げの力自慢等々楽しい交流行事でした。

参加したロシア人は、お年寄りから子供まで皆、日本人以上に負けず嫌いなようです。

〈ホームビジット〉 運動会の後は、数人のグループに分かれてロシア人の家を訪問

しました。

我々は二人で、ゴルバチェフスカヤ・イネッサさんという女性の方のアパートを訪問

しました。本国に息子さんがおられ単身で生活しているとのこと、ビーツを存分に活

かした彼女のボリシチは最高でした。

彼女の部下のオリガ女史が一緒に接待してくれました。彼女の両親は択捉島で牧場を

やっていたとのこと、今でも牛を飼っており、その牛乳から彼女が作ったというスメタナ

(サワークリーム)も忘れられません。食事の途中で通訳の方が巡回してくれましたが、

日露/露日会話集を片手にしてのなんとも滑稽な交流を通じて、彼女等が「日本は大好き

だが、自分が日本人(国籍)に成るとは思わない」という当たり前のことが確認でき

たつもりです。

 

その後、紗那市内に残っている日本家屋を見て、商店街(少し店が大きいが、古釜布と

余り違わない)で土産のチョコレートを買って船に戻り、択捉島の一日目が終わりました。

 

          (続く)