国後択捉ビザ無渡航体験記(上)

郷友連盟常務理事 細  稔

冨田 稔

 

【はじめに】

昭和20年8月16日、日本のポツダム宣言受諾の翌日、ソ連軍が

南樺太に侵攻を開始し、8月28日には択捉島に達した。そして、

千島・樺太全域は9月初旬までにソ連軍に占領されてしまいました。

その2年後に日本人の強制退去が行われ、北方四島の全島民1万7千

余名の全てが故郷を追われました。それ以降、今日まで、我が国固有

の領土である北方領土に対するロシアによる不法な占領が続いています。

強制的に故郷を追われた人々が再び北方四島に足を踏み入れたの

は、昭和39年に行われた人道的見地からの元島民の墓参が最初です。

当初は、身分証明書による確認だけの渡航でしたが、東西冷戦の激化

の中でソ連側のパスポートの要求と日本政府の自国領土入域には不要

との主張の対立等により、途中約10年間は中断されていました。

現在行われているような一般のビザ無し渡航が行われるようになっ

たのは、ゴルバチョフ大統領が訪日した年(平成3年4月)の10月

に「我が国国民の北方領土への訪問について」の閣議了解事項が出さ

れた翌年からです。

その後、平成14年4月に閣議了解事項等を具現化した「北方四島

との交流に関する我が国国民の訪問方法(平成10年度総務庁・外務

省告示第一号)が公布されました。これ以降は、この告示に基づき、

告示の中で指定された窓口団体を主体としたビザ無し渡航が続けられ

てきています。この事業は、今年で15年目に当たります。毎年、

10回程度、各回数十人規模の訪問団が北方領土を訪れています。

しかし、そこに参加できる人は、元島民、返還運動推進団体関係者、

報道関係者、専門家、同行する政府関係者に限られ、平成17年末ま

での日本人訪問者は僅か約7千3百人にしか過ぎません。

国家の主権回復の問題に関わる事業が一省庁の告示に基づき、一部の

関係者の間で細々と行われていることをどれだけの国民が知っている

のでしょうか。

〈参考1〉「北方四島への訪問方法の概要」 

〈参考2〉「北方領土関係日ロ略年表」

我々が参加した平成18年度夏の訪問は、窓口団体「北連協」を主体とし

て結成された「北対協」主催の訪問団です。参加者は、大変バラエティーに

富んでいました。

訪問団の行動の概要は次の通りであり、朝に連絡船から艀で島に上

陸、交流行事及び島内の視察、そして夕には艀で連絡船に戻るという、

充実した毎日でした。

 

 

 

 

( 結団 )

@          根室研修 → 国後移動  古釜布湾鋲泊

A          国後視察 → 択捉移動  約11時間

B          択捉交流行事  内岡湾鋲泊

C          択捉視察対話集会 → 根室帰航

( 解団 )

 

18年8月下旬の訪問団の構成

団 長日本青年団協議会

副団長日本労働組合総連合会

団 員日本青年団協議会、日本労働組合総連合会、日本青年会議

所、早稲田大学政治サークル、日本郷友連盟、自衛隊父兄

会、防衛協会連合会、神社本庁、安全保障問題研究会、

県民会議、北連協事務局 (以上北連協関係者等 30数名)

元島民の方6名、政府関係者(内閣府、外務省、環境省)

4名、議員秘書1名、同行通訳6名、同行医師1名、報道

関係者(NHK、時事画報、北海道新聞)4名、北対協職員

5名

     総勢約60名

 

【根室での準備・出航】

訪問団の集合した根室の町は、千島海域の豊かな水産資源を背景と

して繁栄した港町です。しかし、今はロシヤによりその豊かな海域か

ら閉め出されています。訪問団が根室に集合したのは、ロシアの不法

支配海域に入った第31吉進丸が銃撃・拿捕され船員1人が亡くなっ

た日から間もない8月下旬でした。このため、参加者の関心もこの事

件についての訪問先であるロシア側の対応に集まりました。主催者の

入域手続に時間が掛かるかもしれないとの説明等もありましたが、も

ともと返還運動に関わり、船での寝泊まりを覚悟してきたメンバーに

動揺はありませんでした。

根室の町を散策すると、北方領土返還の標識・看板とともに、ロシ

ア語の道路標識が目につき、ロシアの不法占領下にある北方領土の身

近さを感じさせられます。

市役所に隣接した「ときわ台公園」には、千島海域でとれた蟹の缶

詰工場で働く女工さんの歌った女工節の碑がありました。ボタンを押

すと歌が流れ、彼女等の労苦が忍ばれ、千島海域で自由に漁ができた

時代のことに思いが至ります。

結団式の翌日の事前研修は、根室市街の西方にある「道立北方四島

交流センター」通称ニホロの丘で行われました。ニホロという呼称は、

北海道らしい響きですが、日本、北海道、ロシアの頭文字を組み合わ

せた「ニ・ホ・ロ」だそうです。

交流事業、返還運動等についての説明の後、訪問団の一員である

NHK解説主幹の山内聡彦氏の「プーチン政権下の対日政策」の講話

が行われました。

ロシア駐在経験の長い講師による、露・中・米の力関係の影響下に

ある極東情勢を踏まえた格調の高い話でした。彼の話の結論的な部分

で「ロシアは、冷戦崩壊前後の混乱期には日本に接近してきたが、経

済的に好調な今は中国に関心が向いており、領土問題での妥協、日本

との関係改善の必要性は感じていない。」との趣旨の発言がありまし

た。

長年ロシアを観てきた講師の話には全く同感ですが、ロシア復興期

のチャンスを生かせなかった政府の対応と今後の領土返還への道の険

しさを考えさせられた一時でした。

その後、簡単なロシア語教室、そして最後に元択捉島民の三上氏と

北連協事務局長の児玉泰子氏による択捉島へのロシア占領当時の話を

聞き、いよいよ「北方領土に向け前進」の思いを新たにしました。

根室で魚の水揚げの多いのは太平洋側の花咲港で、根室市街地に連

接して野付水道方向にあるのが根室港です。訪問団は、この根室港か

ら連絡船に乗り一路国後に向かいました。写真は、根室港の岸壁で国

後・択捉への航海を待つ連絡船「ロサ・ルゴサ」と我々の中間線通過

を見送ってくれた海上保安庁の警備艇二隻です。

8月25日16時過ぎに、根室市民の見送りを受けて出航。納沙布

岬を右手に見て、北の海を一路古釜布湾に向かいました。中間線付近

で見送る警備艇に別れ告げる。

 中間線を過ぎてまもなく、右手に貝殻島を見つつ、銃撃で死亡した

第31吉進丸の森田さんの霊に献花黙祷。団員一同、平和な日本の海

の回復への思いは同じ。

右手遠方に歯舞諸島の島影を、前方には国後島の南端付近の泊岳を

中心とした島影を見つつ、夕暮れの穏やかな海面を国後島東岸の古釜

布に向けた航海が続きます。

船内で一夜を過ごし、夜明け前に甲板に出ると、目の前に国後の島

並が横たわり、その東北遙か遠方には択捉の島影を微かに望むことが

できます。朝の光を浴びた北の島の佇まいは、人間の営みを超えた神

秘的なものを感じさせます。



【国後島上陸】
(国後島・・・面積約1500平方q沖縄本島より少し大きい。人口約7400人)

船内で朝食を済ませ、入域手続きを待つ。午前9時(現地時間午前7

時)過ぎに国境警備隊員を乗せた艀が見えてきた。

第31吉進丸の銃撃・拿捕事件の影響で時間が掛かるのではとの当

初の予想に反し30分ほどで手続きが終了。全員後部甲板に集合し、

名前を呼ばれた順番に、舷側の国境警備隊員を横目にして艀に移乗、

現地時間の7時50分頃には桟橋に向かい出発しました。

我々を乗せた艀は真っ直ぐに古釜布港の桟橋に向かいます。錆果て

てたまま海岸に放置されている津波で岸に打ち上げられた船の残骸が

目に付く。

我々が着いた港の中央付近の桟橋の横に、拿捕された第31吉進丸

が係留されていました。桟橋には出迎えの人々と我々を乗せるための

十数両の車両とが待ち受けていましたが、車両のほとんどは、日本製

の四輪駆動車の中古です。

その迎えの車に数名づつ分乗して、最初に向かったのがムネオ・

ハウスと呼ばれたことのある「友好の家」でした。

右の二階部分には宿泊施設があり、短期間派遣された日本語教師等

が利用しています。桟橋からの未舗装のでこぼこ道の両側に並ぶアパ

ートは、壁が色あせ、窓の壊れたままの家が目に付きます。その中で、

最高に管理された近代的な建物が友好の家と言えるでしょう。

「友好の家」では、国後水道以南を管轄する南クリル地区長のコー

ワリ氏他の行政府のメンバーが待っており、交流行事(挨拶)が行わ

れました。銃撃拿捕事件の直後にも拘わらず、特段の警備や緊張感は

感じられませんでした。

銃撃で亡くなった盛田さんへの哀悼の意で始まった地区長の歓迎挨

拶、訪問団長の遺憾の意と早期解決を望む言葉挨拶に続き、記念品贈

呈が行われました。最後に、副団長が拿捕されている3人への差し入

れの申し入れをし、地区長が快く引き受け、北方領土での最初の交歓

行事は無事終了しました。

「友好の家」にいたと思われる第31吉進丸の乗組員は、我々の訪

問前に近くの建物に移されていました。

帰京後に訪問団の一員が撮影した「近くのアパートの二階の窓から

顔を出している船員の方の姿」がテレビに放映されました。我々の訪

問間に写真撮影に何の統制も加えられなかったことは、事前に知らさ

れてはいましたが、我々が想像していたソ連邦時代の彼の地の姿から

するとやや驚きです。

この後、訪問団は三コグループに分かれて、島内を視察することに

なります。

 

<参考1>北方四島への訪問方法の概要 (略)

 

<参考2>北方領土関連の日ロ関係略年表

17C〜  松前藩が統治の記録あり。ロシアの調査記録あり。

1855(安政2年)日ロ通商条約締結、国境画定(択捉以南日本領)

1869(明治2年)北方開拓使が置かれ、4島を郡制に組み入れ

1874(明治7年)樺太千島交換条約により四島+千島18島領有

1905(明治38年)ポーツマス講和条約により南樺太領有

1945(昭和20年)4月ソ連日ソ中立条約破棄88日対日宣戦布告

9日ソ連軍満州11日南樺太侵攻 14ポツダム宣言受諾

    18  ソ連軍占守島28日択捉島侵攻91日国後歯舞侵入

  92日 降伏文書調印式(ミズリー艦上、ソ連代表参加)

    3日 ソ連軍 歯舞群島侵入 6日 全島占領

1946(昭和21年)2月 ソ連 サハリン州設置(自国領編入)

1947(昭和22年)〜1949(昭和24年)日本人の強制退去

1951(昭和26年)サンフランシスコ平和条約(ソ連署名拒否)

1955(昭和30年)日ソ国交調整交渉(ソ連、2島返還意向表明)

1956(昭和31年)日ソ共同宣言(国交正常化、平和条約交渉継続)            

1960(昭和35年)日米安保条約改正(ソ連非難声明)

1964(昭和39年)北方領土への墓参開始

1973(昭和48年)田中総理訪ロ(戦後の未解決問題合意)

1976(昭和51年)ソ連のパスポート要求により墓参中断

1977(昭和52年)ソ連200海里漁業水域設定、日本抗議

(ソ連軍4島の軍事基地強化、漁船拿捕頻繁)

1986(昭和61年)安倍・ゴルバチョフ会談(墓参再開)

1991(平成3年)ゴルバチョフ大統領訪日(4島領土問題確認)

1993(平成5年)エリツィン大統領訪日(東京宣言 4島問題確認)

1997(平成9年)クラスノヤルスク合意、川奈合意(200年平和条約締結努力)

2001(平成13年)イルクーツク姓名(森・プーチン会談、平和条約促進)

2003(平成15年)小泉総理訪ロ(日ロ行動計画採択、早期解決表明)

 

 

(以下、次号に続く)