国後択捉ビザ無渡航体験記(下)
郷友連盟理事 細 稔
冨田 稔
【択捉島二日目――訪問最終日】 択捉島二日目は、我々の北方領土上陸
最後の日であり、訪問中最大の山場である日ロ対話集会が行われました。
例によって艀で上陸、四輪駆動中古車の縦隊で対話集会会場の紗那(しゃな)
中学校に移動、同校の歴史資料室を見学した後、対話集会が行われました。
その後、オーリャ湾の水産加工場を見学、紗那近郊の海岸に移動して野外昼食、
紗那郊外の鮭鱒ふ化場、指臼山の地熱発電所を見学、そして紗那のカフェでの
お別れ夕食会という、充実した一日でした。
午後、我々本隊の行動とは別に、択捉出身の団員である三上氏の出身地
「留別(るべつ)」訪問が企画されました。
三上氏は、留別郵便局長の家に生まれ終戦時は10歳でした。
我々の択捉島2日目の8月28日は、ちょうどソ連軍の択捉島(留別)上陸の
日です。
61年前、留別郵便局長だった三上氏のお父さんは、留別郵便局が占領されて
しまったため、霧に身を隠して馬を走らせ、紗那の郵便局からソ連軍上陸を
打電したそうです。
当時10歳だった三上氏が、59年ぶりに訪れた故郷は、山河は昔のままでし
たが、人家は全くなく夏草が広がっていたそうです。
「集落の跡形もなくなった故郷に呆然とした。
変わりすぎて涙も出なかった。・・・何もないだけにかえって昔の様子を思い
出した。」我々が後で聞いた、故郷に立ったときの三上氏の感想です。
〈紗那中学校資料室の見学〉 ソ連邦時代の中央統制的な展示物のイメージを
持って部屋に入りましたが、やや違っていました。
国家、指導者、政治組織等はきちっと教えていますが、イデオロギー的な偏りは
感じられませんでした。
窓際の壁の上部に歴代の国家指導者の写真と略歴が貼ってありました。
キエフ/モスクワ公国の時代から、ロマノフ朝、共産党、そして現在まで何の
差もなく並んでいます。
また、壁の一辺には中央、サハリン、クリルのそれぞれの三権全ての主要役職
の組織図が現職名入りで掲示されています。
廊下側の壁にあるのは、各時代のクリル開拓の歴史を展開したチャートです。
その中の写真や絵に軍事色は感じられず、淡々とクリルの歴史が語られている
ように見えます。
説明に当たってくれた物理教師のシルプ氏の最後の言葉が「このすばらしい
島の自然と先達の築いた歴史を守ることを教えています。」という言葉でした。
これは、「島は自分たちのものだ」という、我々への当てつけとも採れないこと
はありませんが、普通の国家の教育として当然のことでしょう。
我が国の戦後教育が敗戦に伴う思想的な混乱を乗り越えて国家としての矜持を
確実に教えてきたならば、北方領土返還の国民運動は大きく盛り上がり、日ロ
(ソ)両国政府を動かしていたことでしょう。
〈対話集会〉ビザ無し交流一五年目の節目として、忌憚のない意見交換を行い
たいとの司会の言葉に引き続き、日ロ双方の参加者から様々な発言が続きました。
対話は、ロシア側からの「隣人としての日本人との親睦の促進、文化・スポーツ
面等での交流と日本側の支援」について、日本側からの「日本人の自由な往来・
居住を実現」についての発言が主でしたが、後半になり、日本側参加者から個人
的な意見として、「日本からの大幅なインフラ投資と日ロ混住を進める」との考
えが出されました。
これに対し、ロシア側参加者からも、活発な発言がありました。
ロシア側参加者発言の要旨は次のようなものです。
「不幸にして、二度の戦争があって、現状になっているが、政治家の活動が、
より活発になればと思っている。
交流を通じて、相互不信の気持ちは解消している。
混住については、もうその時期が来ており、ロシア人の方が積極的である。
多民族国家ロシアには多様な考え方があり、その意味では柔軟的かもしれない。」
「混住に焦点を合わせると、法律の専門家の交流が必要であり、お互いの国の
法律を理解する必要があろう。
交流に子供同士の交流を加えてみてはいかがかと思う。
この領土問題を家庭で話したときに、自分の子供から、一緒に住めば良いでは
ないかと提言された。」
「ロシア政府は、この8月4日に、クリル開発計画を立案発表した。
2007年から2011年までに、180億ルーブル支出しようとするものである。
これは一人一月当たり1000ドルに相当し、日本政府の、日本人一人当たりの
支出の4割り増しという額になる。」
この短時間の集会を通じて、北方領土居住のロシア人に対する印象が変わりま
した。
旧ソ連時代には必ず存在したであろう監視員らしい者の姿が見えず、ロシア側
発言内容は発言者の自由意志に基づいていると思える忌憚のないものでした。
「嘗て西欧の某国訪問から帰国後、先方からの手紙を当局に事前に開封され、
呼び出しを受けた挙句に、子供が安全であることを望むなら文通を差し控えろと
脅迫され、返信ができなかったという罪悪感と無力感、再びあのような時代には
戻りたくない。」との別の場所で聞いたロシア人女性の発言を思い出します。
北方領土居住のロシア人は、言論統制下にあったソ連時代に比べ、ずっと自由に
なっているように思えます。
このロシア人の自由な発言は、ロシア政府の意向に拘わらず、また日本人の領土
返還悲願を理解した上で、厳しい自然環境の中で60年の歴史を築いてきた自信と
誇りを主張しているかのようです。
単に相互理解の交流だけでは、彼らの60年の歴史に終止符を打たせ、返還に結び
つける大きな力とは成り得ないでしょう。
しかし、交流がなければ、そこに住む大部分のロシア人は、自分たちが住んでいる
土地がもともと日本の領土であるということする知らないで過ごすことになります。
返還のためには、日本政府の毅然とした外交姿勢、日本国民の大きな声、そして現
に居住しているロシア人の理解が必要です。
対話集会の場に身を置くことにより改めて、日本国民の声をロシア側に伝えるため
の一つの力としての交流事業の更なる拡大の必要性を痛感しました。
集会の最後に択捉島出身の三上氏が話をしました。その内容を紹介します。
「8月28日は、私が十歳の時に住んでいた留別にロシア軍が上陸した日です。
最初は米軍の上陸かと思っていましたが、ロシア軍と聞いてビックリしました。
私の家は大きかったので、ロシアの三家族と同居していました。
母はロシア人夫婦の喧嘩の仲裁を頼まれるまでに仲良く暮らしていました。
私たちは実際に、2年間混住しました。
子供が最初に言葉を覚え、親の通訳をしました。
混住するためには、日露の子供が、一緒に遊ぶ時間を持つことが必要です。
2年後に退去命令が出て、泣く泣く島を離れました。
この際、ロシア人の友達が海岸から見送ってくれました。
船が島を離れ、故郷の島が夕闇に没した後、友達の炊く焚き火の明かりが最後まで
島の目印となりました。
あのまま私たちがこの島に住んでいたらこの島はどのようになっていたでしょうか?
スイスには仏、独の複数の名前の付いた町があるそうです。
時計の生産でも有名な町である。
芸術性の高いロシア人と、勤勉な日本人が混住をして、世界に名を馳せるような
居住地にならないものでしょうか。」
〈水産加工場〉 日産4百dの冷凍加工の工場です。
450人の従業員のうち400人は7月中ばから9月半ばまでの季節労働者だそう
です。
主にサハリン、沿海州の学生で、月給にして1000ドルだそうです。
(寮生活のようですので生活費を引かれた手取りがどのくらいかは分かりませんが、
アルバイトとしては高給なのだと思います。
ユジノサハリンスクに本社のあるギドロストロイ社の経営で、周辺の豊富な水産
資源と米国の冷凍食品市場とを結びつけて、めざましい成長を示しつつあり、
択捉島の経済基盤の主体と成っているようです。
日本政府が領土問題がらみで規制を行っているため、日本企業との直接取引は無く、
日本にはロシア本土、中国、韓国経由で割高な製品が入ってくるそうです。
日本の領土であるという一線は崩すことなく、より現実的なアプローチを模索でき
ないものでしょうか。
工場の外壁には「クリルはロシアの土地」という赤字の看板が掛かっていました。
我々の訪問のためか、ロシアの土地という文字は外して下に置いてありました。
〈鮭鱒孵化場〉 樺太鱒800万匹、白鮭600万匹の孵化・飼育可能な施設です。
9月中旬産卵、11月孵化、4月下旬から餌付け、6月放流とのこと、我々が訪問
した8月は準備中で綺麗に洗い流された水槽が並んでいました。
〈地熱発電所〉 紗那から東に約20q、そこへ行くためだけに造られた山道を
中古四輪駆動車の車列が、埃を巻き上げてひた走ります。
山の尾根を大型ブルドーザーで削っただけの満足な側溝もない道です。
前の車の埃を避けるため、車間距離をとり、窓を閉め切って走ります。
冷房装置はガス欠で冷房の役には立ちません。
久しぶりに自衛隊のトラックで走った昭和30〜40年代の未舗装の山道を思い
出します。
両側の植物は埃まみれで今にも枯れそうです。
サハリン天然ガスの事業にクレームをつけたロシアの言い分が「自然破壊」でしたが、
ここだけ見るとロシアの工事のやり方は自然破壊の典型のようなものです。
途中で、峠付近の展望点に止まり、天候に恵まれたことに感謝しつつ、雄大な自然の
景観に浸る至福の一時を過ごしました。
それからしばらく行った谷間に目指す建設中の火力発電所がありました。
工事現場の奥は、小川に沿って至る所に硫黄の吹き出ている小規模な地獄谷風の場所が
あり、その入り口付近に大きな鉄パイプで囲った温泉場があります。
発電所の工事は、我々の訪問に関係なく続けられており、何の説明もありませんでした。
硫黄泉を一渡り見物して、来た道を引き返しました。
紗那の町に戻り、カフェ・エトロフでの夕食会をすませ、見送りを受けて艀に乗り
移り、連絡船「ロサ・ルゴサ」に戻り帰路につきました。
船内で一頻り体験談に花を咲かせた後、択捉の島影に別れを告げて眠りに着きました。
目が覚めると国後島古釜布の沖合に停泊、出域手続き待ちでした。
国後島の島影に知床の山並みが重なってはっきりと見えます。
北方領土が日本列島の一部であることを改めて確認した思いでした。
〈おわりに〉
60年の歴史を刻んだロシア人居住者が存在する今日、声高に返還を要求するだけ
では、問題の解決には成りません。
四島在住のロシア人の返還後の混住に対する各種不安を和らげ、それを北方領土居住
ロシア人の返還容認の声に繋げるために、交流の機会を更に拡大しいくことが不可欠
です。
勿論、それだけで足りるものではなく、官民一体となった息の長い様々な活動が不可欠
であることは当然です。
しかし、政治的な打算や経済的な理由で安易な解決策を進め、これまでの活動を無に
することのないよう切に望みます。
いかなる困難があろうとも長期的に考え、四島一括返還要求を貫くべきでしょう。
今回の訪問を通じて、60年以上にわたり故郷を思い続けておられる元島民・ご家族
の方々の心情、15年にわたるビザ無し交流活動を支えてこられた関係皆様方の忍耐と
その苦労の一端に接することができました。
いつの日か、人々の努力が報われる日が来ることを確信しつつ、今後とも北連協幹事
団体としての郷友連盟の活動に参加していく決意を確認し、体験記を閉めたいと思い
ます。
郷友の皆様に見聞した北方領土の実態を少しでもお知らせしようと分を弁えず筆を執り、
3回にも渡る冗長な駄文をお見せすることとなってしまいましたこと、お詫び申し上げ
ます。
(完)