海外研修報告

草原の戦跡を訪ねて(4)

 

                            常務理事 高橋 義洋

 

  ブルドのゲル〜カラコルム遺跡

 

ノモンハンの戦場からブイル湖畔のツーリストキャンプに戻り、羊一頭(約百ドルとか)を犠牲にした野趣味溢れるモンゴルの伝統料理を味わい、ローソクの灯の下で語り明かして2晩目の夜を送り、翌6月29日朝、再びチョイバルサンに向い大草原をひた走り、同地のホテルで3日振りにシャワーを浴びて、文明社会に復帰、一泊した。

翌日は早朝3時起床、5時過ぎに40名乗りのチャーター機でウランバートルへ、約1時間半のフライト。
市内で朝食の後、韓国製の大型バスでハラホリン(カラコルム遺跡)に向かい今度は逆方向の西へ、その日は約280キロ離れたブルドのツーリストキャンプを目指す。

ウランバートルのチンギスハーン国際空港でその日のフライト予定を見ると、0720チョイバルサン行からモスクワ行等の便があり、1730東京行までの8便であった。

 空港から市内に入る直前に橋がある、トーラ河で、北のソ連領から遥かに三千キロ流れてきている大河であり、上流では1.5メートルもの「イトウ」が釣れる由。
市内中心部から約1時間半程度走った付近に検問所がある。
ここで市内に出入する全ての車は通行税(150円程度)を支払わねばない。

検問所を通過して程なく集落があり、近くにはあちらこちらに馬群が見える。
まもなく(毎年モンゴルの革命記念日の7月11日、12日)行われるナーダム(競馬、蒙古相撲、弓射の3種目の大会が行われる)の競馬会場であり、遊牧民はあらかじめ馬を移動させて来て、事前の調教(特別な飼育管理)・訓練をしているとのこと。
 モンゴルでは「馬から落ちて人になる」といわれ馬から落ちたことのないモンゴル人はいないとのこと(同行の女性ガイド、ウンダルマさんも30回くらい落馬したが乗馬が大好きと恍惚たる顔)。

ウランバートルから西(日本人観光客が良く訪れている。一番人気があるのは乗馬とのこと)は大草原が続くことに変わりはないものの、東部を見て(走って)来た我々の目にはかなり違った風景に見える。
草原の彼方に山が見える、道に起伏があり諸所に峠に近い高所がある(既述のオボーが作られている)、草原の草の生え方も幾分豊かで緑が濃い。
道路は大雑把に言って、全行程の3分の1位が舗装されているのみであとは埃を巻き上げる荒れた道ではあるが、3百キロの「道なき道」を四輪駆動車で走破した者にとっては居眠りの出るような快適?なもの。
 又、所々に集落があり「人の生活臭」がある。
これらの集落はだいたい人口2千人程度の村で、学校、病院が1つあり、学校の生徒は3〜4キロ歩いて通学するのが普通のこととか。

ブルドのツーリストキャンプは、政府がカラコルム遺跡観光客の宿泊用に最近開設を認めた新しいキャンプで、日本のキャンプ場のように一応シャワーも水洗トイレも使え、大きなゲルの食堂もある。客は30〜40あるゲルに数名ずつ分宿、比較的清潔で快適。

翌7月1日、ブルドキャンプから約70キロ草原を走ってハラホリンへ、同地のカラコルム遺跡を見学した。
ハラホリンはモンゴル帝国の首都だったところであり、16世紀に建立されたチベット仏教のエルデネゾー寺院や亀の形をした台座「亀石」等の遺跡が残されおり、近郊を流れるオルホン河流域の自然環境と合わせてユネスコの世界遺産に登録されている。
日本人観光客が一番多く訪ねるところでもあり、我々も「一見の価値あり」と満足。
それにしても共産主義時代に、仏教を厳しく弾圧し多くの僧侶を殺し、このカラコルムの寺院を含めて多くの寺院を破壊した事実におぞましさを禁じえない思いがした。

見学を終え、一路350キロひた走って、3度目のウランバートル入り、再びチンギスハーンホテルで最後の夜を迎えた。

 

    ゲル自体 時計の役目 果してる

    ハラホリン 建築の髄 示しおり
   


 
   世界遺産・エルデネーゾ寺院の内苑

    
             寺院内の石碑 (デザインが国旗に採用された)

 


帰国・研修を終えて

 

 7月2日、6日間にわたる現地での研修を終えて、チンギスハーン国際空港10時15分発成田直行便で帰国する予定であったが、横風が強く離陸出来ないとかでじっと我慢のウエイティング。
5時間後の午後3時半頃ようやく出発、約4時間半のフライトで午後9時過ぎようやく成田に到着、何とか全員無事に帰国することが出来た。

 今回の研修は、過去何回となくこの種研修に参加してきた自分にとっても、最もハードで最もインパクトの強い研修であり、概括的な所見を申し述べれば、

 広いモンゴル(日本の4倍の面積)をじっくりと「鳥の目、虫の目」で見ることによりその実情を知ることが出来た。今次研修団の行動は、実質6日間で、移動距離は約2千6百キロ(そのうち千2百キロは航空機で、残りの千4百キロは四輪駆動車及び大型バスによる)に及び、モンゴル国土の東西の幅約2千4百キロ(南北は約千3百キロ)を越えるもの(日本の北海道〜九州を遙かに越える)であり、ほぼ中央に位置するハラホリン(カラコルム)以東のみを往復したものとはいえ、実情把握に充分なものであった。
如何に広く、人口が少なく、果てしない草原が続いているかを実感した。
 民主化以来まだ日が浅く(17年)、インフラ整備の遅れをはじめ国全体がこれからの発展を強く期待していること。
今後10〜20年したならば、新しい世代の指導者の下、見違えるような国になるのではないだろうか。
将に「これからが楽しみな国」である。
我が国はその発展に経済面をはじめとする各分野での協力を惜しまず、モンゴルとの確固たる友好親善関係を確立することにより、将来の(対中国を考慮した)戦略的構想の確立に資さなければならないと考える。

 ノモンハン事件の戦場を訪れ、諸英霊に対し慰霊の誠を尽くすことが出来たのは本懐とするところであった。現地を研修した今でもなお、何故1万余もの戦死者を出す厳しい戦いをしなければならなかったのか感情として理解できない。
 ノモンハン事件の悲劇は政戦略上の悲劇、戦後の自決・捕虜に係わる悲劇、そしてその教訓を生かせず大東亜戦争に突入した悲劇と色々な面での見方があろうが、現地をつぶさに見ることが出来た今、最も悲劇だったのは、武器なく、弾なく、水も食料もなく、厳しい自然環境下で戦い散っていった現場の将兵達であったという実感がする。

 それにしても現地では、ソ連軍・モンゴル軍の立派な戦勝記念碑等が数多く建てられている。
それに対して日本は、英霊の慰霊碑の一つも建てられないものか、誠に残念至極である。
現場の大使もまだ(ノモンハンに)行ったことがないとの発言であり、政府派遣の遺骨収集団の他、ごく限定された慰霊団が訪れているだけのようである。
「英霊の慰霊・顕彰」はこれで良いのか、国を挙げて見直しをする時期には未だ到っていないのであろうか。
 ウランバートルの空港で待っている間に、多くの日本人観光客に会い話をした。
驚くべきことにノモンハンの地名も、ノモンハン事件という大きな戦いがあったことも全く知らない日本人が相当いる。
モンゴルに来て乗馬やトレッキング・ウオーキングを楽しむのも結構ではあるが、ほんとに日本の歴史教育はどうなっているのだろうかと義憤を押さえきれない。

 最後に、高齢者が多い団体ながらハードなスケジュールの研修を計画通り実行し、何処もスキップすることなく完全に成し遂げた研修団の全員に敬意と感謝の念を表したい。
 就中、疲労がもとでお腹を壊した団員を元気な人達皆が力を合わせて献身的な介助をしつつ無事帰国し得たことに重ねて感謝申し上げます。

 また外務省アジア太洋州局中国課、防衛省大臣官房文書課、陸幕情報課武官業務班はじめ、お世話になった関係各位に御礼申し上げ、報告を終わりとします。

      この旅は 四駆の揺れを 耐え凌ぎ
  ・  モンゴルを よくも巡りし 六百里
  ・ 勝つ見込み皆無の戦なぜせしか 国民は皆真実を知らず