海外研修報告

草原の戦跡を訪ねて(3)

 

                            常務理事 高橋 義洋

 

  ノモンハン戦場跡で慰霊祭を執行して英霊を鎮魂

 


 実はこの後、ハルハ河東岸地区を含め地点の標定には苦労した。
自衛隊で野戦特科(砲兵)職種であった自分でも、一望してなだらかな台の連続、ほとんど起伏の無い平地・草原の連続に如何ともし難い。
当時の日本軍も地点の標定に悩まされ攻撃のための部隊の機動・集中等に困難を極めている。
又ソ連軍も攻撃に際しては赤旗を林立させ、友軍の第一線や砲兵の標定点に使用することが多く、日本軍はこの赤旗を倒すために攻撃した。
そこから南へ数キロの地に日本軍部隊の玉砕の地がある。
広漠たる草原の中で少しだけ高くなった地点に今なお日本軍の陣地の交通壕の跡と思われるものや陣地の指揮所として使われたと思われる土中に半分埋まった鉄製の管(弾痕のあともある)がある。


 
        (今も残る日本軍陣地跡)

 一本の慰霊柱と数本の半ば朽ち果てた卒塔婆が草原の強い風で倒れている。
慰霊柱には「歩兵第二十六連隊第一大隊、バインツャガン死守陣地、安達大隊戦没諸英霊」と記されていた。(ハルハ河を渡河して南進した第23師団主力はソ蒙軍の反撃を受け、7月3日には撤退して東岸地区に転進した。この際掩護部隊として敵の追尾を支え玉砕した部隊と思われる)。

 
           (安達大隊玉砕の碑の前で)

近くにソ連軍の戦勝記念碑がある。
日本軍の如何にも寂しい玉砕の地と異なり、鎖で囲まれた敷地内にかなり立派な高いコンクリート製の慰霊碑が建てられ、当時の戦車(T26、BT7戦車3百両以上の攻撃を受け、日本軍は火炎瓶による肉薄攻撃で約150両を撃破した)も展示してある。
ロシア語の説明文中には小松原師団長の名前も記されている。

 

 更にほど遠からぬ所に日本軍の慰霊の地があり、金色の観音像(中は空洞、ハリボテ状の物)と慰霊柱と数本の卒塔婆がある。「バインチャガン地区戦没諸英霊」と記されていた。

当時の第23師団主力が攻撃前進したハルハ河西岸台上を更に南下、10キロ位の地にモンゴル軍の戦没者を祭った施設(中央に慰霊碑があり、周辺に80〜90の四角いコンクリート製の墓石らしきものが並んでいる、柵で囲い一応整備されている)がある。
またしても戦勝国側を知らしめさせられる思い、丁度このあたりで第23師団はソ蒙軍の反撃にあい撤退を決心した所でもあり何とも皮肉な思いもした。

更に西岸台上を南下してスンベルという村に到着。
この間ハルハ河の向う側、東岸地区を仔細に観たかったが適当な展望点が無く、台端まで出ないと良く見ることが出来ないようであった。
いずれにしても西岸台地の方が東岸台地よりも標高が高いのは容易に確認出来るところであり、当時日本軍が常にソ軍の瞰制下におかれ、砲兵射撃が一大脅威であったことは頷ける。

スンベルはこの地域で唯一の比較的大きな村(人口3千)で、国境警備隊(大隊規模?)が駐屯している。
ハルハ河西岸台地から降りる村の入り口付近に、とてつもなく大きく高い戦勝記念のモニュメントが、あたりを睥睨するかの如くそそり建っている。
西岸台地を降りて低地を一キロ位走ると、ハルハ河に唯一架けられたコンクリート製の二車線の橋がある。
国境警備隊の駐屯地で副司令官と会い、若い中尉を案内につけてもらい勇躍前進。
遂にハルハ河に到達、はるばるとここまでやって来たかと感慨ひとしお。

ハルハ河を渡河。川幅は2百メートル程度、水流部分は約百メートル、水深は1メートル程度(一群のモンゴル馬が河に入って水を飲んでいた、水は足が半分隠れる程度)水流もせいぜい毎秒1〜2メートル程度か。
水は大変きれいで数人のモンゴル人達が小船で遊んでいる。
何とも穏やかでのどかな風景、何故あのような悲惨な戦闘が行われたのか、今となっては到底理解出来ない情景に不思議な思いがする(戦闘たけなわの時に現地に赴いた外国人記者の「この下にダイヤモンドがあるのか。石油があるのか。石炭があるのか」という問いに、若き日本軍将校が「何もない」と答えて、記者を唖然とさせたという)。


 

 かの有名な「ノロ高地」を目指して前進。
全般の地形はハルハ河をはさんで東西それぞれに5百メートルくらいの低地があり双方共に台地になっており、西岸はかなり急な傾斜で台上に至るが、それに対して東岸はなだらかな傾斜で台上に至る。
前述したようになだらかなほとんど起伏のない台が続いており、どこが「フイ高地」なのか、どこが700?高地なのか判断に苦しむ。案内についてくれた中尉に地図(要図)上で地点を示してその誘導に任せることにした。

5〜6キロ位前進したところに小流があり難なく四駆で渡渉、「ウッ!」こんなところに小流があるはずがない。確かめてみればそれが「ホルステン河」であった。戦史で馴染みの河、それがこんな小流とは、ハルハ河と合流する河なので多分ほぼ同じくらいの大きさの河だと先入観を持っていたのは自分だけではないと思う。

慰霊祭を執行して英霊を鎮魂

ホルステン河を渡って更に2〜3キロ北へ前進、少しばかり高くなった地点に灰色の仏像と金色の観音像(いずれもハリボテ)と二本の慰霊柱そして数本の卒塔婆がある。
慰霊柱には「東部隊戦没諸英霊」、「川又地区戦没諸英霊」と記されている。
この地が昭和14年5月28日、東捜索連隊が優勢な敵戦車群(30〜40両)に包囲され全滅した現場であり、又その後7月〜8月に日本軍が防御し何度となく反撃を繰り返し、最後には圧倒的に優勢なソ連軍に包囲され玉砕した主戦場、パルシャガル高地の南部、川又地区(ハルハ河とホルステン河の合流点付近に架けられた軍橋を川又軍橋といい、ソ連軍はこの橋から侵攻し、日本軍は何度となくこれを目標として反撃したが、遂に一度も到達奪取し得なかった)の738高地付近であると判断し得る。

あたり一帯は諸所にわずかに窪んだ地点があるものの、ほとんど平地で隠れようとしても身を隠せる所のない、全く拠るべき地形のないところであり、植生もわずかなボサがあるのみ、土質は砂同然、戦車を中心とした攻撃に身を晒さざるを得なかったに日本軍はさぞかし辛い困難な闘いを強いられたであろう事は創造に難くない。
付近には今なお、彼我の陣地構築の跡と思われる窪みや凹地もある。

この地点で研修団一同打ち揃って慰霊祭を実施した。はるばるとウランバートルから運んできた花輪を捧げ、日本から持参した日本酒や水やタバコ、ある団員が携行した乾パンと金平糖等を献じて、寺島団長が祭文を奏上、一同拝礼、君が代斉唱、国の鎮めに合わせての黙祷と英霊の霊安かれを祈った。


   ノモンハン事件の主戦場「バルシャガル高地南部(川又地区)
   738高地付近」における慰霊祭での祭文

 

今を去る78年前、ここノモンハンの地において散華された1万8千余の英霊に対し、謹んで祭文を奏上致します。

「ハルハ河畔、一望千里、茫漠として平砂限りなく、満日荒寥として家なく木もなく水もなし、只、月光空しく憂いて草短し」この言葉はノモンハンで勇戦敢闘し、連隊長として只一人生き残った歩兵第26連隊長須美大佐が戦闘終了後の慰霊祭で述べられた弔辞の一文であります。
今この地あって当時と変わらないであろう光景に接し団員一同感慨無量なるものがあります。

ノモンハン事件は昭和14年5月中旬から9月中旬に至る約4ヶ月間、広漠たるホロンバイル草原を戦場として日本軍とソビエト軍、外蒙軍との間で繰り広げられた激烈な戦いでありました。
不明確な国境線という曖昧な環境下で、当初は越境部隊の小競り合い程度であった戦闘が徐々に規模が大きくなり、最終的には戦車、大砲、航空機を駆使する師団が参戦する近代戦へと発展したのでありました。

68年前の昨日即ち27日はタムスクに航空攻撃を実施し赫々たる戦果を収め一方、第23師団の将兵は七月一日からの攻撃に備えハイラルから移動中でありました。

一木一草とて無きこの地において、炎熱の中40〜50キロに及ぶ装具を担い、数十キロを行軍したそのご苦労振りは創造するに余りあるものがあります。
 我が日本軍は勇戦敢闘、全知全能を絞り任務達成に努めましたが、戦力特に重装備の差、機動力や兵站の脆弱性は如何ともし難く、また上級司令部の拙劣とも云うべき指揮統率の問題もあり、23師団のごときは70%以上が損耗するという全滅に近い多くの犠牲を払う結果となったのは真に遺憾であり残念に思われてなりません。

しかし近年ロシア側の資料によってソ連軍・外蒙軍の人的損害は日本軍のそれよりも大きかったことが明らかになりました。
英霊の皆様も以って瞑すべきと思います。

 わずか十数キロの国境地域の争奪に何ゆえ双方があれほど固執したのか、何故80%に近い損耗を出しても戦わなければならなかったのかなど戦後、政戦略的あるいは戦術的に様々な研究検討がなされていますが、事件の大義についてはやや疑問を感じるところもなしといたしません。
日本はノモンハ事件の2年後には大東亜戦争に突入しました。
歴史に若しはありませんが、このノモンハン事件をもっと教訓としてその後の国家施策に反映していたならばあるいはと思わないでもありません。

 我が国は敗戦後多くの困難を乗り越え、目覚しい発展を遂げ今日に至っております。

しかしその影には尊い命をお国に捧げられた方々の犠牲があることを決して忘れてはならないと思います。
 ここノモンハンの地には今なお3千5百柱の遺骨が眠っていると伺っています。

そしてその大部分は最早収集困難とも言われています。
私ども日本国民として誠に申し訳なく甚だ慙愧に耐えないものがあります。

 あらためてこの戦場にて散華された勇士に想いを致し、我々一同誇りある美しい日本の再生になお一層精進することをお誓い申し上げ、祭文と致します。


 平成19年6月28日

              日本郷友連盟モンゴル研修団 団長 寺島 泰三


団員の中には感極まり涙する者もあった。
将に「つわものどもが夢の跡」の思いがする。
よく見るとこの地点の後方(北東方向)にやや窪みになった地形がありじっと眺めていると、ここに東中佐以下2百余名の将兵が円陣を作って奮戦玉砕し、山縣支隊(歩兵第64連隊基幹)が夜襲により遺体を収容して撤退した姿が見えるような気がした。


  
               (戦没英霊の地で祭文を奏上する寺島会長)

  

更に東へ歩を進めたいと思ったが、案内のモンゴル軍の中尉に「これから先は、まだ不発弾等があり危険だ、又中国との国境もすぐ近い」と制止され、これ以上の前進を断念して帰路に着いた。帰路ホルステン河を渡り、同河に沿って西進してハルハ河との合流点付近(クイ高地と思われる)を視察した。
合流点付近のハルハ河畔は葦のような草が生え沼地の様な状態になっており、かつて北方2〜3キロ付近にあった川又軍橋も今はない、唯その付近の対岸(西岸)台地の一部に、当時軍橋に至る接近経路として使われたと思われる比較的傾斜が緩くなっている地形が視認出来た。

万感の思いを胸にハルハ河の橋を渡りスンベル村に戻った。
村にある「戦争記念館」を拝観したが、祖国防衛に成功したモンゴル人民軍と偉大なるソ連軍を称える展示が主体で、それは止むを得ぬことと理解は出来るものの悔しい思いで早々に辞し、ブイル湖畔のキャンプを目指した。

ノモンハンの戦場地域では、何一つ日本軍の遺品らしき物に巡り会うこともなったが、ブイル湖畔のキャンプに2泊してチョイバルサンに向う6月29日朝、出発直前に、キャンプの経営者家族の一人が、自分で保管している日本軍の遺品と思われるいずれも赤く錆びた鉄兜、手榴弾、銃剣、薬きょう、薬入れ等を我々に見せてくれた。
団員の一人が譲って欲しいと申し入れたが応ずるところではなかった。
大事に保管してくれるように、通じない言葉で何とか意思表示して別れた。

  ・ ノモンハン 奮戦防人 思い馳せ

  ・ ノモンハン 火力の優越 勝負決め

    ・  指揮官が籠もりて下知をせしといふ 鉄の筒のみ野原にポツンと 

  ・ ハルハ河美しき流れ血に染めて 一万人の兵死せる丘

  ・ 果てしなき野末悲しきノモンハン 今降り注ぐ
(ぬく)き日射しが


  ・ 奮戦死 防人偲び 慰霊祭

  ・ 団長の告げ文胸に迫り来ぬ この野に散りし兵に届けよ