海外研修報告

草原の戦跡を訪ねて(2)

 

                            常務理事 高橋 義洋

 

  モンゴルの大草原、道なき道を3百キロ走破

 

首都ウランバートルから約6百キロ、モンゴルの最東端にあるドルノド県(北はロシア、東と南は中国と国境を接している)の県都チョイバルサンを出発して一路東へ3百キロのキャラバンが始まったのは6月27日13時50分であった。



 その日、ウランバートルから1時間20分程のフライトで到着したチョイバルサン空港は一面に短い草がまだらに生えた平地の中にあって、見渡す限り360度地平線が遙かに見える。
これが滑走路かと疑問に思えるような荒っぽいコンクリート舗装、辺りには航空機の掩体と見られるものが散在している。
聞けば、この空港は元来ソ連軍により作られたもので、1990年の民主化までは約1万人のソ連軍がチョイバルサン一帯に駐屯していた(町の郊外に、当時のソ連軍が使用したであろうそれらしき施設の残骸がかなり広い地域に残っているのを見た)という。
そうだとすれば、あの掩体は中ソ対立厳しい頃、中国の攻撃に備えたものであろうと納得。

 空港に我々を迎えたのは7両の四輪駆動車(トヨタ・日産各1両の他はロシア製の車両)の車列、全員分乗して空港から15分ほどの市内のホテルへ向う道路の状況は、四輪駆動車が出迎えたことを納得させるにふさわしいものであった(尤もその後のキャランバンに比べれば、序の口とは後で気付いたこと)。

 チョイバルサンの町は人口3万というが、広い平原にまだらに集落が散在するような寂しげな町で、それでもさすがに中心部にはちょっとした街並みがあり一応設備の整ったホテルもある。
昼食を摂ったホテルの従業員に尋ねると「日本人を見たのは初めてだ」とのことで遥々着たかの感を強くした。
町のはずれに遠くウランバートルの北東部から延々と流れてきたヘルレン河がある。
この水が更に東進してハルハ河と合流し、中ソ国境のアルグン河更にアジア最大のアムール河となって太平洋に注ぐ、なんと4千5百キロの流れかと考えると気が遠くなる思いがする。

この町はチョイバルサンの出身地ということで名付られた。
チョイバルサンは1920年、スヘバートル(既述)等と共にソ連政府に選ばれてモスクワで共産主義の洗脳を受け、後日モンゴル人民革命(1921年)を指導した七人の一人。
スヘバートル(人民軍総司令官)の死去後、1924年のモンゴル人民共和国宣言(憲法制定、首都クーロンをウランバートルに改称)の際「全軍司令官」となる、1936年には内務大臣に就任、ソ連の指導の下に多数の党・政府の指導者やラマ僧等を右翼日和見主義者あるいは日本のスパイとして粛清、独裁体制を確立して1939年には首相となり1952年死去するまでモンゴル人民共和国を支配した(後にモンゴルのスターリンといわれた)。
この間1939年のハルハ河戦争、1945年の対日戦(満州・内蒙古進攻)を指導した。

ノモンハン戦跡研修を終えウランバートルに戻る前日(6月29日)、再びチョイバルサンを訪れ一泊したが、その際町の中心部にある博物館(入り口の前にチョイバルサンの大きな銅像がある)を見学した。
展示の大部分は郷里の英雄チョイバルサンの遺功を称えるものであり、さながら記念館であった。
この町にもソ連軍とモンゴル軍のハルハ河戦争での勝利を称えるモニュメントが諸所に設置されている。
その中のひとつ、小高い山の上にコンクリート製の白く高い塔と、その背後の壁面に戦死者の名前を記したソ連空軍の戦勝記念(慰霊)の施設がある。
当時の日本軍が空中戦で多くのソ連機を撃墜した事実を思い出し少しばかり痛快な気分?になる。
また街中のちょっとした広場に、ノモンハン事件の際に、日本軍が爆撃した地点として大きな爆弾のモニュメントが置かれている。
何一つ説明する文もなく半信半疑で「爆弾」をひと撫でしてきたが、帰国後調査してみると、1939年6月のタムスク空爆の際、一部をもってチョイバルサンを攻撃し街中に投弾した事実があることがわかった。


 いよいよ東方ノモンハンの戦場に向って前進開始、まずは約3百キロ余の地にあるブイル湖(中国との国境、南方からハルハ河が注いでいる)畔のツーリストキャンプを目指して7両の四駆からなる車列がモンゴルの大草原を走る。

どこまでも果てしなく続き、見渡す限り山ひとつなく全周に地平線が見える将に大平原・草原である。
しかしながら緑なす草原、緑の絨毯を敷き詰めたような草原のイメージとは全く違い、赤土の平原に10センチ程度の枯れそうな草がややまばらに生えており(遠目には一面の草原と見える)、諸所にボサはあるが木は全くない。
これがモンゴルの草原の実相(小用休憩時も、人目から隠れる所はまずない)で、ところによってやや植生は変わるものの3百キロ余の道程はほとんど変化が無い。

草原を走る道路は全くの道なき道で、ただ車の轍があるのみ、よくも道を(方向を)間違えないものと感心するくらいだ。
全般的には平原で平らではあるものの、走る道(轍の跡)にはかなりの凸凹があり車は大きくバウンドを繰り返しながら走る(ランドクルーザーの天井に頭を打ちつけることもあった)。
自衛隊時代に演習場を駆け巡った自分には、演習場の道路を外れた路外を走っているような感じがする、それが延々と続く。
速度はせいぜい平均時速50キロ位、たちまち車酔いする人が出る、「銀杏返し」で胃腸がひっくり返る思いで食欲が全く無くなった人等、悪戦苦闘、難行苦行の3百キロ・8時間、二度と体験したくないとの声に「帰路も同じです」とは言い辛いことであった。


 走り出して40分位の地で、一寸した小高いところに石が三角錐のように積まれその頂上に棒杭を垂直に立て青い色の長い布巻きつけたものがある、これがオボーで道中の安全を祈るもので人々は石を積み時計回りに3回廻って祈るとのこと。
元来シャーマニズムに由来するもので、モンゴルでは国中あちらこちらの道に作られている。
道祖神のようなものと理解して、教えられたとおりに安全を祈った。



行き交う車もほとんどなく、人家もなく遠くにゲルが偶々見えるだけ、遊牧民が飼う牛、馬、羊、山羊、駱駝(モンゴルでは五畜という)があちらこちらに見える。
偶々馬に乗って犬を連れた遊牧民を見かけ、思わず車を止めて言葉を交わしたのは大変嬉しいことだった。
我々の車よりも断然速い速度でノロ鹿の群れが疾走、行く先を横断する様は見事なものだ。


 ・ 八時間走り続けてもまだ続く モンゴルの原地平線遥か

 ・ 丘を越えてチンギスハーンの騎馬部隊 疾風のごとく下る幻

 ・ 牛も馬も羊も山羊も大家族 草原を走るモンゴルの今

 

そんな行程でも、国境警備隊(軍隊)の検問所が3ヵ所ある。
チョイバルサンから約3時間行程のところに最初の検問所がある。
ポストには2名の隊員がおり、運転手の携行した許可証をチェックしどこかに電話(報告?)して、ようやく道路上のポールを上げ通過OKとなる。
すぐ近くに駐屯地らしき施設、一見して20〜30名くらいの部隊か。
我々一行が写真を撮っているのに気付いた隊員が手を振って撮影禁止だとの素振りだが、幸い問題になることもなくホッとした。



 更に1時間少々走ったところに第2の検問所がある。
結構大きな部隊(大隊規模?
 0306部隊の表示がある、前述及びこの後に通過する第3の検問所の親部隊と想像できる)の駐屯地で、直ぐ傍に家族の宿舎と思われる家屋とゲルがある。
駐屯地には隊舎も体育館もあり、営庭ではちょうど終礼?であろうか隊員が整列しているのが見える。
中にはスカートをはいた女性隊員も見える。
現在のモンゴルでは徴兵制がひかれており、18〜27才の男子が対象、軍隊に行くことで「男になる」との意識が強いとのこと。それでも600ドルを払えば兵役を免除される途もあるとか。また女性でも希望すれば軍隊に入れる由。
ここでも許可証を提示して通過。
更に約1時間半行程で第3の検問所では隊員が一人だけ、あらかじめ通知があったと見え遮断機のポールを上げてフリーパス。

 急になにやらトラックの往来があり、油田の掘削のような機械や簡単な小屋と若干の人影が見える地域があった。
何事かと尋ねれば、なんと中国が大草原で石油の探査を実施しているとのこと。
中国人が大嫌いという現地の女性ガイドはそれを許したモンゴル政府の政治家の腐敗振りを罵ることしきりであった。
いずれにしても資源獲得にかける中国の凄まじい意欲と、それに比べて我が日本のなんたる能天気振りを対比して考えざるを得なかった。
同時にこれから数十年後、モンゴルのインフラが整備されこの地域にも立派な道路網が出来たならば観光も、資源開発も進むであろうが、その結果モンゴルの大草原は失われてしまうのではと心配になる。

 この時期のモンゴルは、午後8時半を過ぎてもまだ明るい。
忍の一字でひたすら走り続けてもう少しの我慢。
だんだん暗くなり進路の轍の跡も見え難い、よくも走れるものと運転手を信頼してダンマリ。
行く手右前方に稲妻が何回か、雨か? 実際に翌日の夜にはブイル湖畔のツーリストキャンプで一時雨が降り、キャンプの経営者とその家族には日本人が雨を持ってきてくれたと喜ばれた。
雨の少ない、水のないモンゴルの草原ならではのこと。

 午後9時半を回って、ようやく目指すブイル湖畔のツーリストキャンプに到着した。
約8時間にわたる大草原走破完了、万歳! なんと、このキャンプでは水なし電気なし、もちろんシャワーもなし(すぐ近くのブイル湖で沐浴を楽しんだ?人も多い)。
トイレは掘っ立て小屋の自然落下式。
しかし給水車らしきもので洗顔は出来るし、家屋(食堂やメンバーの半分が宿泊した部屋がある)には発電機により時間制限付きながら何とか電気がつく(残りの半分が分宿したゲルには全く電気がつかない)、あとはローソクと懐中電灯に頼るのみ、文明社会が恋しい。
見上げる夜空はこよなく澄んで星が降る如し、スーッと流れる流星に息を呑む思いだ。
好んで体験することでもないが、偶には人間原点に返った生活をしても悪くはない。
かくしてこのキャンプで二晩を過ごすことになる。

 ・ 前うしろ 右も左も 地平線

 ・ 風呂がわり ブイル湖水で 水浴し

 ・ 水の無い 国の生活 学びとり

 ・ 廣大な原野に立ちて仰ぐ空 北斗七星怪しく光る

 ・ 満月の上りくる様ただ壮大 宇宙の神秘に心震えり


ノモンハン事件の戦場へ

 6月28日午前8時、ブイル湖畔のキャンプ場を出発、ノモンハン事件の戦場に向う。

まず東進、例によって道なき道を草原の轍の跡を約2時間近く走ってハルハ河が眼下に見える台端に到着した。



そこにも国境警備隊の駐屯地(数十人規模と見受ける)があり、近くにラマ教の古い石仏群が祭られている。
ハルハ河の向こう(東岸)になだらかな一連の台が見える、日本軍が主戦場とした「バルシャガル高地」であることを確認、目を北に転じて「フイ高地」を確認しようとしたが、一様になだらかな台が続いているだけで残念ながら高地は確認できない。
いずれにしても、現在地はフイ高地の南方、ハルハ河が南から西へ屈曲している箇所(昭和14年7月1日、第23師団主力が一本の軍橋でハルハ河を渡河して南方へ突進した)の南方の台パインツャガンであると判断した。

(文中の短歌は同行の町田の金子町子さん、川柳は宇都宮の谷武雄さんの作品です)