草原の戦跡を尋ねて(1)


         モンゴル・ノモンハン海外研修報告
 


                     常務理事 高橋 義洋

 


 

モンゴルの首都ウランバートル(赤い英雄の意)のチンギスハーン国際空港に着いたのは、6月25日午後9時半頃(日本時間午後10時30分)で、成田から約5時間のフライトだった。
標高1500メートルの高地ゆえ涼しく(気温25度位)さわやかな夜だった。
首都の国際空港から市内に向かうにしては、およそ似つかわしくない半分は未舗装あるいは舗装がだめになった?箇所があるかなり荒れた道路(近い将来、日本が援助して整備される計画があるとか)を「チンギスハーン ホテル」に直行した。
こうして我々は都合3回ウランバートルを訪ねることになる。

 今次研修は、寺島団長(連盟会長)以下26名の研修団(男性16名、女性10名。最高齢91才、80才以上4名、平均年齢71才。研修初参加者11名)に国際航空旅行サービスの青木社長が添乗して、6月25日〜7月2日の7泊8日でウランバートル〜ブイル湖畔〜ノモンハン戦跡、ウランバートル〜カラコルム遺跡を訪ねるものであった。


 

モンゴル・ウランバートル概観

 

6月26日(研修第1日目)朝、初めて目にした首都ウランバートルは結構な大都市である。
何せ人口250万人のモンゴルにあって、約4割を占める百万都市という。
その市街を一見して、直ぐにロシアの街並に良く似ていると感じる。
いかにも無骨で一見がっちりしている風情だが、実は不細工で使い勝手の悪い直ぐに故障する、どうしようもないような建物ばかりが並んでいる。

通りには汚れたバスと古びたトロリーバスが走っている。看板の文字はすべてロシア文字? 実はモンゴルは1940年代以降旧来のモンゴル文字を捨てて、ロシア語と同じキリル文字で表示するようになったので無理も無いこと。漢字は皆無、英語の表示が少しだけ見られる。
1990年からの民主化以来まだ17年しか経っていないわけで、それまでの70年近くソ連から完全に支配されていたことを思えば現状は容易に理解できる。

ウランバートルは60%が37才以下の人という若い町だとの説明(後日、何故37才という年齢で区切るのかを考えた。
1990年民主化の時に20才だった人が今37才ということで、時代の変化の区切れとしているものと気が付いた)。
また市民の平均給与は月300〜500ドルの由で、日本との物価の比が(体験的に)10分の1位なことを考えればそれほど低くは無い。

 

ウランバートルの市内を抜けて日本人墓地に向かう途中には、一見貧民窟かと見紛うような貧しげな集落が続く、各戸は一様に粗末で透き間のある板塀を巡らした敷地の中に、ゲル(遊牧民が使う木とフェルトで出来た移動式住居、中国ではパオと言う)と小さな粗末な作りのレンガや木造の家が建てられている。
夏はゲル(一組300ドルと比較的廉価で、元来遊牧の民であるモンゴル人には不可欠のものという)に冬は家に居住し、水道は無く井戸または共同の水汲み場を使い、風呂も共同風呂で、暖房用に各戸が薪を炊くので公害が問題化しつつあるとのこと。

日本人墓地に向かう途中に、いわゆる日本人捕虜(戦後抑留された日本兵のこと、モンゴル全体で1万2358人が1945年〜47の2年間抑留され、強制労働などを強いられた)の収容所跡地があり、収容所内の病院だったコンクリート二階建ての建物が一棟だけ残っている。


          (日本人捕虜収容所の病院跡)

 その裏影にある小さな家屋で、日本人捕虜として抑留中に現地で亡くなった人1164柱(当時のモンゴルは70万、ウランバートルは7万の人口のところに1万2千余の日本人捕虜が送り込まれて来たわけで、大きな労働力として期待され使われたが、食糧・医療事情の悪さや冬の極寒で多くが倒れた)の霊をお守りしている神奈川県在住の春日行雄さん(24才で内蒙軍に従軍しウランバートルに抑留された。
軍の病院関係に勤務していた経験がありモンゴル語が出来たので、収容所の病院等モンゴル軍の管理を手伝わされ生き残って帰国したがその後、現地での死没者の霊を守るため私財を投じ、年に数ヶ月はモンゴルに滞在して慰霊堂を建設・維持して87才の現在に至った由)にお会いし当時の話などを
お聞きして御霊の安かれをお祈りした。

 

日本人墓地は郊外のほとんど人気のない地域の小高い岡の上にあり、階段を踏みしめて上がればちょっとした広場があり正面にコンクリート製の塔が立てられている。
正面奥の壁面に「日本人死亡者慰霊碑」のプレートがはめ込まれており、それには「さきの大戦の後、1945年から1947年までの間に、祖国への帰還を希みながらこの地で亡くなられた日本人の方々を偲び、平和への思いをこめてこの碑を建設する。 竣工 平成13年10月25日 日本国政府」と記されている。

正面の拝礼台に日本から持参した日本酒や水を供え全員が整列する中、寺島団長による献花、拝礼、国歌「君が代」斉唱、「国の鎮め」に合わせての黙祷の次第で慰霊祭を実施、その後各人が順次お線香・お灯明を捧げて英霊の御霊安かれを祈った。
折悪しく風が大変強く、夏装備の全員が肩をすぼめるような肌寒さだった。


            (高台にそびえる日本人墓地)

 

その後ウランバートル市内に戻って、スヘバートル広場〜ガンダン寺〜歴史博物館〜(昼食)〜カシミアの専門店〜日本大使館〜国立デパートと順次研修した。

スヘバートル広場とは、モンゴル中央政府の白いビルの前の広場(東西3百メートル、南北5百メートル、北京の天安門や日本の皇居前広場に比べればかなり小さい)で、モンゴル人民革命の指導者スヘバートル(1920年、ソ連政府に招かれモスクワで共産主義に洗脳された七人の革命家の一人で、帰国後モンゴル人民義勇軍総司令官となり1921年7月モンゴル人民共和国を樹立した。
1923年30才の若さで死去した)の名前がつけられている名所である。
ビルの入り口に二人の武将を左右に配した巨大なチンギスハーンの坐像がある。
一見してワシントンのリンカーン像を思わせるもの。確かめる機会がなかったが、おそらく1990年の民主化以降の物に間違いない。
社会主義時代にはモンゴル人のナショナリズムを刺激しないように、チンギスハーンはことさらローキーに(無視して)扱われていた。
振り返って広場の東南隅近くには現在でも使われているオペラハウス(当時の日本人捕虜の手で立てられたもの)がある。


          (スヘバートル広場)

ガンダン寺は社会主義時代の厳しいチベット仏教弾圧で多くの寺院が破壊された(1924年〜1939年の間で1万7千名の僧侶が殺され、300以上の寺院が破壊された)が唯一幸運にも破壊を免れた寺院であり、本尊の巨大な仏像はソ連がモスクワに持ち去り返してくれないので民主化以降に新たに作ったとのこと。
今では仏教も復活してモンゴル全体で80%が仏教徒であり、残り20パーセントがキリスト教徒とイスラム教徒である。
昼食時にはゲルを装った食堂で、モンゴルの民族音楽である馬頭琴や三味線の演奏、ホーミー等を楽しみながらモンゴル料理を食した。

市内中心部に近いオリンピックストリートに堂々たる門構えの我が日本国大使館を訪れ、市橋大使を表敬訪問した。
大使自ら1時間以上に亘って懇切丁寧にお話していただいた。

その日夜、チギスハーンホテル内での研修団の結団式を兼ねた夕食会を開催、その席にモンゴルの在郷軍人会の会長サンボさん(制服姿の元陸軍少将、73才)、ベーチンさん(85才、1945年の対日戦に従軍)、シャーラーハタイさん(88才、1939年のハルハ河戦争と1945年の対日戦に従軍)の三人をお招きし、「ホクトーイ(乾杯)! 」を繰り返して、日モ友好親善を深めた。



        
(結団式に招待したモンゴル在郷軍人と通訳)

在モンゴル日本国大使館 市橋大使のお話(要旨)

日モ関係は、1972年国交樹立して以来35周年を迎え、最近では相撲のせいもあって親密度を増してきている。
 昨年はモンゴル建国800周年に因んで「日本におけるモンゴル年」、今年は「モンゴルにおける日本年」を設定、昨年はモンゴル首相の訪日、小泉総理の来訪、今年はモンゴル大統領の訪日、そして7月10日には皇太子殿下の来訪と交流が続いている。

1972年まではモンゴルにとって、日本は敵性国家であった。
かつてのハルハ河戦争(ノモンハン事件を当地ではこう呼称している)、終戦時ソ連の対日宣戦にあわせてモンゴルは対日宣戦をした。
従って日本に賠償責任があるとモンゴルは認識していた。
日本は戦後処理として経済協力50億円(当時通貨)を実施して、アジア最大のカシミア工場を作り1981年に稼動した。
これがモンゴルにとって大きな外貨源となった(昨年民営化された)。

250万の人口で、3千500万の家畜を有するモンゴルで遊牧は集約できない。
また遊牧民は農業になじまない(野菜を作らない)。
中国の農業侵略に対する警戒心が強い。
インフラ建設など近代化からかなりかけ離れた状態にあった。
 1990年以来の自由化・民主化・市場経済化により、かつての社会主義時代の自給自足型国家からの転換を目指してきたが、東欧と違う(清朝時代には外蒙も支配下にあり、ロシア革命を経て一九二四年以来ソ連の支配にあった)環境下で苦しい時代を経験した。
この間地下資源(銅)をロシアと合弁で売り出し、その値上がりにより一息つくことが出来た。

そして迎えた800周年。
自分の手でこれからの国造り、ビジョンをどうするか、遊牧をどうしていくのか、グローバリゼーションの時代でもあり、ロシアと中国にはさまれて自立発展のため近代化が必須の条件と認識、上からの強権的支配に馴染まない国民性を考慮して、リベラルな民主化を進めており優等生に近い。
眼は大きく日本を見ている。
経済的支援への期待は大きく親日感は強い。
一方日本人もまた、1973年の司馬遼太郎の紀行記にさえ、モンゴルの人達が親日感を持っていることが書かれているし、先の戦争で生き残った日本人も、ソ連には恨みを持っているもののモンゴルには近親感的なものを持っている。

モンゴルは現在、豊富な地下資源の開発を日本と組んでやりたい、更には日本の得意分野の製造加工業での協力を進めたいと希望している。
先般2月の大統領来日の際、総合的パートナーシップということで、今後の行動計画を作成している。
この中で民間を中心とした関係を強化するため官民合同協議会を作ること、鉱物資源の開発に先立ってカシミア等モンゴルに役立つ面での協力を盛り込んだ。

 

以下、研修団員の質問に答えて

 

鉱物資源としては南部のゴビ砂漠地方を中心に銅、金、石炭その他レアーメタル(ウラン鉱等)がある。

ODAは中国の隣に位置するという戦略的地位を考慮して、1990年の民主化以来約10億ドル以上の支援をした。

中国人は建設労務者など多いが一番嫌われている。
次いで韓国人はやはり小中華思想という考え方を持っていること、あるいは元寇のこともあるのか嫌われている(韓国は年間2万5千人ものモンゴル人を受け入れているが、単純労働者が主体で人気がない)在留日本人はわずかに350人程度。

 「足の早い面」での国民感情レベルと政府レベルでの中国への反応は違う。
中国・ロシアの両隣国の他、第三の隣国として経済的には日本、軍事的バランサーとして米国への期待が大きい。
安全保障面ではモンゴルは中国の脅威を認識して米国のプレゼンスを求めており、日本にも地域的な役割を期待している。
現政府(人民党)は未だ非同盟的な考えが強いが、野党の民主党は対米依存感が強い。
ベトナムに似た状況にあると見られる。

軍のレーゾンデートル(存在理由)としては、直接的な国の防衛ということよりも国際貢献や災害派遣によって国益を守るという姿勢になっている。
イラクはもとよりアフリカのシェラレオーネ、アフガニスタンにも派兵している。
また「王の征服」と名づけられたPKOの共同訓練を昨年から米国等と実施している(わが国もオブザーバーを派遣、中露は無視している)。

「これからが楽しみな国」といえよう。
それは単にビジネス面のみならずで、今の指導者層はモスクワ、イルクーツク、あるいは共産政権下のモンゴル国内で勉強した人たちであるが、これからは諸外国、その中でも日本で学んだ人たちが出てくる。
日本への留学生を千人位にしたい。
また日本からの観光のチャーター便は昨年18便、今年は25便と増えている。
観光客は昨年1万8千人程であった。