「南エチオピアの人々」 2016年3月9日〜18日 (その1) |
「エチオピア」と聞いて思い浮かべることは? ローマオリンピックと東京オリンピックのマラソンで連覇をした裸足の英雄「アベベ・ビキラ」、日本の皇室とも親交があったと聞く「ハイレ・セラシエ皇帝」、近いところでは女子マラソンのファツマ・ロバ・・・そんなところでしょうか。 あまり、知識は無いけれど「百聞は一見に如かず」で、2016年3月9日から3月18日の10日間、エチオピアに出かけてその姿の一端を見てくることにしました。 1日目 旅立ち 成田発19:45のエチオピア航空B787機で7泊(プラス2機中泊)10日の旅に出かけました。 まず、約5時間飛んで香港に到着。ここで機内待機の後、更に12時間余り飛んで翌朝、首都アジスアベバの空港に無事到着しました。日本との時差は6時間です。 「エチオピア航空という航空会社はできたばかりで、信頼できない?」 ところが「エチオピア航空」は1945年に設立され、エチオピア政府が100%出資している、創立70周年の由緒正しい航空会社なんです。 2日目 アジスアベバからランガノへ アジスアベバに到着しましたが、そもそもエチオピアはどこにあり、どんな国で、今度の旅の道程はどんな風になっているのでしょう。 エチオピアの広さは日本の約3倍、人口は約1億人、人類発生の地だそうです。 エチオピアの北部の観光はソロモン王朝時代の遺跡や岩窟教会が有名ですが、南部の観光は独自の文化を持つ83もの少数民族との出会いが目玉のようで、今回の旅では南部地域を廻ろうとしています。 エチオピアの東のジブチには自衛隊の基地が置かれ、「ソマリア沖」海賊退治に当たっています。 また、西隣の南スーダンでは平成23年から累計2000人近くの自衛隊員が国際貢献活動をしています。 アジスアベバに到着 アジスアベバに午前7時20分に到着し、早速、空港でブル(1ブルは約5円)に両替をしました。 部族の人の写真を撮るとモデル料を要求されることが多いそうで、5ブル札に両替しました。 アジスアベバは標高2000mの高地で「新しい花」という意味だそうです。100年ほど前にメネリク2世によって開かれた首都で人口350〜400万人に増加しつつあります。周辺の山はメネリク2世によってオーストラリアから移植されたユーカリによって緑が豊かです。 勝利記念碑とメネリク2世像 街のロータリーに、イタリアに戦勝した記念の碑とメネリク2世像が建立されていました。 メネリク2世は2度イタリアの侵略を受けたが、1896年のアドワの戦いによって、これを退けました(第一次エチオピア戦争)。エチオピアは白人国家に植民支配を受けなかった歴史を誇りにしています。 さて、「ハイレ・セラシエ皇帝」は、どうなったのでしょうか? 1930年に皇帝に即位したハイレ・セラシエ1世は「アドワの報復」と「文明の使節」を掲げたイタリアのムッソリーニにより1935年に侵攻されました(第二次エチオピア戦争)。 イタリア軍は1936年、毒ガスを使用してエチオピア軍を壊滅させ、皇帝ハイレ・セラシエ1世はロンドンに亡命しましたが、その後、1941年にエチオピアはイギリス軍によって解放され、皇帝ハイレ・セラシエ1世は凱旋帰国しました。 しかし、貧困、ソマリ人の反政府闘争、干ばつによる10万人餓死やオイルショックによる物価高騰等が引き金となって陸軍の反乱が起こり、1974年、ハイレ・セラシエ1世は軍部によって殺され、その遺体は25年間隠されていたそうです。(共産主義者の青年に殺されたという説もあります) エチオピアでは、その後、メンギスツ大統領がエチオピア人民民主共和国を樹立、エチオピア労働者党による一党独裁制を敷きましたが、恐怖独裁政治や粛清が続き、反政府勢力との戦闘の結果、メンギスツ大統領は1991年にジンバブエへ亡命、その後、メレス首相が政権を担当して、ようやく安定してきました。 今では、エチオピアはアフリカの中で一番経済成長率が高く、治安も最も良い国になったそうです。 アジスアベバ市内で、色とりどりの商品が並ぶシロメダマーケットへ出かけた後、こざっぱりしたレストランで昼食をとりましたが、食事がなかなか出てきません。ここでは「ゆったり感」が大切ということでした。 ビールは色々の種類があるようですが、すっきりした味わいで、乾燥したのどに沁みます。 この日は、アジスアベバには宿泊せず、トヨタランドクルーザに乗って旅の目的である南エチオピアに向って出発、トヨタの車はドバイを経由して輸入されていますが、トヨタ車は圧倒的な人気です。 また、トラックは「いすゞ」が人気です。 街を出ると、まだ建設途上の高速道路が走っています。中国によって建設され、この道路を使ってコーヒなどの農産物等がジブチの港に運ばれ、世界各地に輸出されているということでした。 3時間ほど走って、ズワイ湖に立ち寄り ズワイ湖はエチオピアで4番目に大きな湖で、魚が多いのか湖岸にはマラブーという大きな鳥やアフリカ鷲が遊んでおり、野鳥の天国という感じがします。 ティラピアという鱒に似た魚や鯰の仲間が獲れていました。 更に走って、夕方、宿泊地のランガノに到着し、SIMBO LODGEに宿泊しました。 3日目 今日はランガノから南へ340km走ってアルバミンチまで旅行します。 湖畔の朝、美しい日の出を楽しみました。 湖畔の宿はきれいな花や可愛い小鳥の声で溢れており、朝食のバルコニーにも警戒せずに近寄ってきました。 朝食後、一路南へ走りバナナやマンゴーの畑が続く道を通ってアバヤ湖畔を経てドルゼ族が住む村を訪問しました。 ドルゼ族の村を訪問 ドルゼとは「織り人」という意味だそうで、女の人が糸を紡ぎ、男の人が布に織るんだそうです。 ドルゼ族はアルバミンチ郊外の標高2500mの高地に住む少数民族で、村に近づくと、子供たちが上手なウエルカム・ダンスで出迎えてくれました。 ドルゼ族は昔、象がいた歴史を伝えるために象に似せた家を作っており、織物や工芸品の販売を兼ねてダンスを披露してくれました。 アルバミンチに到着 アルバミンチは40の泉という意味だそうで、多数の泉があるそうです。 MORA HEIGHTSに泊まりましたが、ティラピアの姿焼きをいただいた後、コーヒーセレモニーを披露してもらいました。 豆を焙煎するところから飲むところまでかなり時間がかかりますが、この長い時間を利用してお喋りをするのに意味があるのだそうです。 4日目 今日はアルバミンチから南へ240km走ってジンカまで旅行します。 MORA HEIGHTSのレストランで朝食。 ホテルはアルバミンチの高台に位置し、アバヤ湖とチャモ湖の二つが見える素晴らしい眺望で、庭にはマンゴーやカラフルな花も多く、爽やかな朝でした。 今日は先ず、バナナ畑を通り、牛の行進を待って、ツマイ族の村を目指します。 大地溝帯(地球の割れ目) 途中、大地溝帯を通りました。この割れ目は、南はケニア、北はエチオピア北部を通って紅海の方まで続いています。 途中、KANTA KONSOというきれいなレストランで休憩しましたが、パパイヤやプルメリアやブーゲンビリアなどが目を楽しませてくれます。二重構造の屋根がコンソ族の特徴だそうです。 3時間程走ってツマイ族の村に到達 成人の儀式に10頭の牛の背中を往復する「ブルジャンプ」で有名な部族です。 年齢は数えず、「ブルジャンプ」できた者だけが成人になり、結婚もできます。 教育は部族内の「寺子屋」のような所で、主として「部族の言葉」を教えるそうです。昔ながらの生活をしているようですが、もう数年の内には「お金」「バイク・車」「スマホ」の文化に流される日が来そうです。 ジンカに到着 周辺に少数民族が多く住んでおり、少数民族の村訪問の拠点となる街です。 ジンカのレストランでチキン料理を食べましたが、この地方のニワトリは日本のプヨプヨした鳥肉と違って筋肉隆々としていて、あごの強化になります。 若者には日本のアニメが流行しているらしく、上手に日本語で挨拶をしてくれました。 ジンカのマーケット 今日は土曜日で週一度の市が立っていてすごい活気があり、子供達もしっかり商売しています。 アリ族の村を散策 アリ族は農耕や、放牧と共に陶器作りなどで暮らしています。 大勢の子供達に取り囲まれました。この女の子は小学校4年生で、「イタリア」という名前だそうです。 村の中に小学校・中学校があり、近くに工業専門学校もあったので、部族民は孤立から同化へ進んで行きそうです。この部族では、結納の牛があれば、人数の制限なく奥さんを持つことが出来るそうです。 30分ほど走って宿泊地のエコオモロッジに行きましたが、ツマイ族やアリ族の青年などの姿を見ていると、ぜい肉がなく、見事に鍛えられており、肉体労働が多いこともありますが、多分鍛えられた体が彼らの誇りのようです。 「南エチオピアの人々」(その2)へ 日本郷友連盟HP トップページへ |