パラオ研修旅行 栃木県郷友会 谷 武雄 |
(パラオ研修旅行2015年(平成27年)2月24日〜3月1日 栃木県郷友会 会員 谷 武雄 はじめに 26年度、日本郷友連盟企画のパラオ諸島研修旅行に参加した。見、聞、感じた事の一端を記したいと思います。 『この度の海外研修旅行は、第一次世界大戦後(1922年、大正11年)に日本の委任信託統治領となった南洋群島の一つである パラオ諸島、特にペリリュー島、アンガウル島です。 この島は大東亜戦争時の激戦地で有名です。 ここを守備したのは、パラオ地区集団(第14師団宇都宮)であり、 特にペリリュー島では水戸歩兵第2聯隊が中心(約1万2千名、中川州男大佐指揮)となり、1944年 (昭和19年)9月15日 〜11月24日までの73日間、約4万名の米軍に徹底抗戦し11月24日有名な「サクラ、サクラ」の暗号訣別無電を師団司令部 (パラオ諸島の中心地コロール島)へ打ち玉砕した。 アンガウル島では、9月17日〜10月19日の33日間、日本軍1千200名(宇都宮歩兵第59聯隊第一大隊基幹・後藤丑雄少佐 指揮)が米軍2万名と戦いました。いまだ3千柱以上のご遺骨が、この地に眠っていると見積もられ、この激戦地を訪れ、往時を 偲びご英霊に慰霊の誠を捧げる旅です。 現在パラオ共和国は、風光明媚なリゾート地であり親日国です。その国旗は日章旗をモチーフにして作られていると云われ ています。』 “パラオ人 親日の筈 父日本人” パラオ共和国は日本から南へ3千km、南北640km間に586もの島々からなり、人が住んで居るのは9島のみ、人口約2万人 約7割がパラオ人、中国、アメリカ、日本など多民族が移住している。 紀元前千500年頃から人類が住んで居り157年以降スペイン(15年間)、ドイツ(15年間)、日本(31年間)アメリカ(50年間)の 植民地統治時代を経て1994年独立した。 注 『 』内は日本郷友連盟案内資料による。 2月24日 成田〜パラオ (コロール) 成田発20・20〜パラオ国際空港着0・05(バベルダオブ島アライ州) コロールは島の名前であると共に、アラカベサン島、マラカル島からなる州の名称でもある。 2006年首都がコロール州からマルキョク州に移転したが、今もパラオの総人口の70%が居住する共和国の中心で学校、 ホテル、デパート等あり唯一の繁華街が存続する。 “傘寿過ぎ 冒険ダン吉 チトキツイ” 2月25日 コロール島・・・・・バベルダオブ島 ▽日パ友好橋 (413m) 日本政府補助で作られた立派な橋で繋がっている ▽123兵站病院跡 コンクリートの壊れた土台が残るのみで荒廃し、雑草が繁り野原となっている。 ▽コロール島日本人墓地参拝 全員で焼香慰霊、日本パラオ人、日本韓国人の慰霊塔で焼香慰霊、 ▽パラオ国会議事堂参観 (バベルダオブ島、マルキョク州) 高台に位置する新庁舎は宮殿か寺院のよう。 休会中かも知れなかったが、管理、事務員だれ一人居なく私達のみにはびっくり。 ▽パラオナショナルミュージアム国立博物館 パラオの歴史と文化、植民地時代の文化財、日本に関連した 文化遺品(日本統治時代の学校の成績表等)が大切に保管されている。 ▽参加者顔合わせの夕食会 参加者は15名、常連3名若い人が2名、その他は70才以上の老研修員です。 車椅子の女性には驚いた。今回は関西から参加者が多かった。 それぞれ自己紹介が終わりお互いの健康を確認しながら旅をしましようで食事会が盛り上がった。 “自己紹介 話が長過ぎ それ迄と” 2月26日 コロール島〜船で2.5hアンガウル島〜1h ペリリュー島 “太平洋 島から島へ 渡し舟” ▽船の旅と計画されていたが、その船を見て驚いた。日本の川の渡し舟を一寸強くした様な10t〜15tぐらい。 しかし、強馬力の船外機が2機付いている。速度は30〜40ノットはでそうだ。これで太平洋の荒海を渡ると云う。 波飛沫を被るので雨衣を着て、その上から救命胴衣を装着。 手荷物は大きなビニール袋に入れて、腰かけの下に、 座席は舟の両縁に対面で一列。 行きは海も穏やかで、途中「イルカ」の大群に遭遇、舟も速度を落としてくれ楽しむ事が出来た。 アンガウル島に無事に上陸多少の舟酔があったが、缶ビール一杯で良くなった。 アンガウル島慰霊巡拝 ▽アンガウル島 コロール島から南へ約60k/m 人口116名、日本軍が駐留し、2次大戦でペリリュー島と同様激戦の地となった。 「巡礼用のバスと思いきや、日本中古車の軽トラック3台が来た。皆荷台に乗り降りした。」 ▽米軍上陸海岸、その周辺には、いまだに日米相方の武器等の残骸(グラマン戦闘機3機、中型爆撃機M4戦車、火砲等確認)が 赤錆で、アチコチに残っている。 ▽日米相方の戦没者慰霊塔巡拝 立派なしもつけかんの像 英霊よ安らかれの慰霊塔は数年前の津波で少し奥に流され位置を 変えたが倒れもせず残っている。この前で全員焼香献花慰霊。 この前で記念写真。 その後ジャングルの奥にある小さなアンガウル神社に参拝。 ▽1000MAN,CAVE (干名洞窟)の中に入り慰霊した。 日章旗がおかれていた。 「ドライバーが郷子の実を取り蛮刀で穴を開け皆で飲めとすすめるので一口飲んで旨かった事、忘れない」 “束の間に 飲んだ榔子実 疲れとれ” ▽行きは良い良い帰りは怖い。 アンガウル島からペリリュー島へ。荒天のため海が多少荒れると云う。 身支度は十分整へたが、帰りの船旅は地獄の旅だった。 大波のせいで、ピッチング、ローリング揺れに揺れおまけに 波のかたまりが上下左右から降り注ぐ。 生きた気がしなかった。 歯を食いしばった1時間でした。 “大波に 敲かれ皆んな 口喋み” 全身ずぶ濡れ財布の中お札まで湿気ってつていた。 全員無事民宿に着いた。 安堵!! お湯は出ない暖いから水で我慢した。 民宿は(日本人経営?) 食事は良かったが、部屋は雑魚寝、板の間にゴザを敷き 敷ブトンと毛布1枚。 それでも舟旅の疲れを癒すことが出来た。 “舟酔も ビール飲んだら 酔い治り” 2月27日 ペリリュー島〜1h コロール島 ▽ペリリュー島はコロール島南約5050km人口約700人・大戦時米軍侵攻の最初の上陸地点、待ち構えた日本軍の一斉射撃で 海岸は血で染まったと云う。 ▽西太平洋戦没者慰霊碑「みたま」で慰霊祭本研修の最大イベント「みたま」で慰霊祭。全員で献花焼香、会長が祭文を奏上した。 天皇陛下のお言葉にあるとおり、パラオ集団 (宇都宮14師団基幹)の健斗を讃えると共にパラオ諸島で日本の楯となり散華 された多くの南煌英隆の霊に安かれと敬虔な祈りを捧げた。 「みたま」周辺には関連部隊の碑、個人の墓が多数作らている。 “先端で 日本の楯と 14師団” ”14D奮斗 陛下の感状 数度あり” ”コンバット 野州集団 安らかに” ”砲兵の 集中威力 出来なんだ” ”戦没碑 瞼に浮かぶ 父の顔“ ▽オレンジビーチ 米軍最初の上陸海岸で、日米激戦の地である。今なお種々戦跡が残り、日米相方の慰霊碑が建つ。 “日米の 勇士の霊よ 安がれと” ”珊瑚礁 その先端が 波打際“ ▽海軍司令部跡 内部は壊れ、雑草が茂っているが頑丈なコンクリートの建物はそのまま残っていた。 帰りは波も静かで周囲の島々の風景も良く見られる快適な船旅でした。 無事コロール島着 “父パラオ 母日本人 ガイド嬢” (すでに嫁さんでした。 コロール島 泊 2月28日 コロール島、バベルダオブ島、市内見学 ▽旧官幣大社 南洋神社 (祭神・天照大御神) 旧神社は一旦撤収されたが新しい時代を迎へ日パ両国の有志により、立派に再建されている。 境内には「天皇お言葉」 の碑、海軍墓地等あり綺れいに管理されている。 “郷子の葉が 貴重な建築 材料に ” ▽海洋水族館 マングローブ、海草、貝 (シヤコ貝) 各種類魚等、ワニ、多種多様な南海の水族館。 海岸と併設して海水の満ち干を利用したプールが設けられている。 ▽お別れ食事会 大型居酒屋のような店で海の幸唐芋焼酎を喰べ飲みながら、立派な慰霊祭、荒波に敲かれた事等旅の話に花が咲き、 有意義なお別れ会となった。 皆様お元気で!! コロール島泊 3月1日 パラオ〜成田 01時起床 04・03パラオ発〜08・50成田着 “機内朝 ビール頼むと 笑われた” JRで宇都宮着 13・00素晴らしい旅を終えた。 安堵! “会長さん 谷が帰れば 旅終わり” “年寄への御心使い感謝して” おわりに ▽昭和陛下のお言葉 「パラオ集団ハ実ニ善ク統卒力徹底シテ立派ニ戦闘シ復員モ善ク出来テ満足ニ思フ」のとおり旧14師団の奮斗を讃えると共に このパラオ諸島で国の楯となり散華された多くの南煌英隆の霊安かれとお祈りし、慰霊申し上げます。 ”コンバット考案したのは 井上さん” ”軍司令 妻の従兄妹の 貞衛さん“ ▽食については海の幸満杯で子供の頃を思い出し満足。 “島の国 魚料理は 満点だ” “シヤコ貝の 刺身の味は 絶品だ” ▽ホテルから眺める海の風景が私の故郷高知須崎港の風景と余りにも似ていて驚いた。 海まで500mも! ▽寺島会長さん、この旅を企画された方、参加者の皆様有難度う御座居ました。 “この旅で 知り得た人(友)は我が宝” (終り) |