第9・10・11日 タシュクルガン・カシュガル・北京そして東京へ

タシュクルガンへ

クンジュラブ峠の国境を過ぎ、多数のマーモットを見かけながらパミール高原を走り、タシュクルガンに着いた。
道路はきれいに舗装されていた。 
ここは新疆ウイグル自治区で、標高は3200mとまだまだ高地にある。
宿泊したホテルはシンガポール資本の新築ホテルで、ようやく埃だらけの日々から解放された。 
お湯も出るし、停電にもならない、文化的な生活に戻った。 ホテルの前でもビルが建設されていた。


タシュクルガンには多数のタジク人が住んでいる。 
彼らの宗教はイスラム教イスマイリア派で、ウイグル族はスンニ派だそうだ。
町は携帯電話会社や中国政府関係のビルの新築ラッシュで、団結を呼びかけるスローガンを多数見かけた。
タシュクルガンはパミール高原へのトレッキングの基地で、この時期、アメリカを含む多くの国からトレッキング客がやって来て賑わっている。 日本からの客は、数年前のカシュガル暴動以来、パッタリ止まっている。

9日目はカシュガルまで
9日目はタシュクルガンからカシュガルまで320kmを走る。
タシュクルガンの町はずれに、昔、玄奘三蔵法師がインドからの帰りに訪れたという石頭城があった。


スバシ峠

パミール高原の山沿いを暫く走っていると、タジキスタンに通じる道があった。
更に進むと、タシュクルガン地区が終わり、スバシ峠(4000m)に到達した。 
ムスタクタ山(7000m級)は田部井さんも登った山で、多くの氷河が見られた。 ここからはキルギス自治州になる。


カラクリ湖
暫く走るとカラクリ湖(黒い湖)に出た。観光用の馬も用意されていたが、若者たちはバイクを楽しんでいた。 
観光用の馬もいたが、こっちの方が良く似合う。 パオには太陽光パネルが設置され、テレビも見れる。


キルギス族のお父さんと子供は、こんなスタイルで、お母さんはこんな感じです。
来週のラマダン明けに祭りがあるので、準備に大忙しと言うところでした。


赤い山が出現
それから暫くキルギスの地域を走る。
昨日の大雨で石が路上にせり出した所も、待っていればすぐに補修され進む。
更に進むと赤い山が出現し、ずっと続く。トルファンの火焔山より赤いそうだ。 勿論、鉄が採れる。 
新疆ウイグル自治区は鉱物資源に恵まれて、実に重要な地域なのだ。


カシュガルが近づいた
昼食に立ち寄った店は、漢方薬の店が経営していた。 店員さんは、ウイグル人でしょうか?(やや不明) 
我々の車のドライバーはウイグル人で、常に安定した運転をしてくれた。


ついにカシュガルに到着
そして、いくつかの町を通過して、ついに、「カラコルム・ハイウェイ」の終着駅であるカシュガルに到達した。
ちなみに、カシュガルというのは、玉(ギョク)が集まる所という意味らしいです。


エイティガールモスクへ
モスクの中は静寂で、カシュガルの人たちの心の拠り所のようであった。 
カシュガルの人達の約70%はウイグル族、25%は漢族である。


職人街を歩く

職人街には人間の臭いが漂っており、強い生命力を感じた。 銀細工屋や、服飾屋、雑貨屋、果物屋・・・
サンザと呼ばれるドーナツのようなものを揚げている。 
シタールのような楽器の音に深い感銘を受けた。


パソコンに疲れた時に使用するポプラ製の枕。いいですね。
電池式の無音のスクーター。 これはやや危ないですね。 注意喚起のために何かの音を出してほしいですね。


旧市街を歩く

壊れかけたドアを開けて家を拝見させてもらってビックリ! 中は御殿のような3階建て。 
家は見かけによりませんね。
旧市街で遊ぶ子供たちが可愛すぎる。 仲がよさそうで、ほほえましい。


旧市街の建て直しが急ピッチで進められている。 
漢族風にするというのではなく、地震対策のため、日干し煉瓦の家を、焼煉瓦の家に建て直しているとのこと。
小さなモスクも建て直し中であった。 
モスクは地域の金持ちがお金を出し合って、建てるのだそうだ。 
ポプラの柱は良かったが、一部に合板が使われていたので、スポンサーのお金持ちに聞いてみたら、建物に金をかけすぎず、困っている人にお金を分け与える方を選んでいると言う。 ・・・イスラムの素晴らしい考え方に感心させられた。


カシュガル・ウルムチ・北京・東京
中国東方航空・中国南方航空・パキスタン航空を乗りついで無事帰ってきたが、エピソードを1つ。

旅の疲れか、ボケが出てしまったのか、私はウルムチ空港の持ち物検査で、かばんを検査場に忘れてきてしまった。
かばんを忘れていることを指摘され、急いで取りに戻った。 
厳しい検査官殿が、かばんを開けて、中から尺八を取り出し、管の中をさかんにチェックしたが、特に何もない。 
そして、「吹いてみろ!」とジェスチャーで示したので、私は妙なる音で音階を一節吹いた。 
するとその場に居合わしたこわい女性検査官殿も、いっしょに拍手をしてくれた。 
私が調子に乗って、もう1曲吹こうとしたら、検査官殿がジェスチャーで「もういい、かばんを持っていけ!」と、示したので、「これ以上頑張ってはいけないな。」と、思って、無事かばんを回収して検査場を後にした。 
「尺八をやっていてよかった。」と、思った一時であった。


「旅のおわりに」


さて、旅の始まりには多少の不安を抱えていたが、今、こうして日本に帰り、安全な生活を取り戻してみると、「ああ、チャレンジして良かったな。」「フンザは良かったな!」 「カラコルム・ハイウェイは良かったな!」 「フンザも見たことだし、もう死んでもいいな!」 との思いで、充たされている。

「さて、次はどこにするかな?」と夢想する日々が、再びやって来るのはいつになるのだろうか?


      
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