ミ ャ ン マ ー研 修 旅 行 記 常務理事 勝木 俊知 はじめに 平成22年10月24日から30日の間、寺島会長以下14名でミャンマー連邦(以下ミャンマーと呼称)を訪れ、大東亜戦争時のイラワジ会戦(昭和20年1月9日〜2月27日)およびメテイラー会戦(昭和20年2月28日〜3月28日)がおこなわれた戦場となった地域で、戦史の研修と戦没者の慰霊をおこなった。 ミャンマーは約68万平方`と日本の1.8倍の面積があり、人口は約5,737万人で日本の半分である。首都はネピドーにあり、旧首都であるヤンゴンからは車で5時間程かかる。 ミャンマーは少数民族を抱える多民族国家でもあり、ビルマ族が7割を占め、ビルマ語が使われている。 我々が訪問した時期は雨期も終わりの頃で、前の週に襲来したサイクロンの影響で各所に道路の崩壊が見られ、訪問が1週間早ければ行動不可能な状況だった。 11月7日には20年振りの総選挙が行われることもあり、外国人の入国を制限するとの噂もあった。 旅行間の気温は35度、湿度80%と、蒸し暑い日々ではあったが、スコールに遭うこともなく、晴天に恵まれた。 10月21日には突然国旗の図柄が変更になり、訪れた在ミャンマー日本国大使館で初めて目にした。 この国では、男子は一生に一度は僧としての修行をする敬虔な仏教徒国で国民の90%が仏教徒であり、軍政の暗さを感ずるようなことはなかった。 男女ともロンジー(巻きスカート)を愛用し、女性や子供は男女を問わず顔にタナカ(樹枝を磨り潰して得られる白粉)を塗っている。 スニーカーや革靴は使用せず、大半の人が裸足またはサンダルを履きである。 この記事が読まれる頃には選挙結果も判明し、タン・シュエ国家平和開発評議会(SPDC)議長が再度国家元首となっているであろう。 行動の概要: 24日(日) タイ航空641便および305便にてヤンゴンへ。 所要時間は約7時間(11時・成田発、バンコック経由ヤンゴン着・18時45分、時差は2時間30分)。 空港で在ミャンマー日本国大使館勤務の防衛駐在官・佐藤一陸佐の出迎えを受ける。 この国際空港は、かつて加藤隼戦闘隊(第64戦隊)が根拠地としたミンガラドンの飛行場である。 ホテルへのバスの中で、現地通貨チャットとドルを換金する。 正規の為替レートは、1ドル=1チャットであるが、観光レートでは1ドル=約千チャットとのことで、各人50ドルを換金する。 20時ホテル(チャトリュウムホテル)に着く。 途中満月が中天にかかり、時々の驟雨が街を烟らせ、霞むのが印象的であった。 夕食時、結団式をおこなう。 25日(月) 8時30分ホテル発、チャウタッジー・パゴダの巨大寝釈迦像(全長70b、高さ18b)を拝観する。 お釈迦様のお顔が現代的で艶めかしい。 足裏に108の煩悩の図柄が刻まれている。 ミャンマーの人々は、生まれた曜日を大切にし、曜日毎の守護神がある。 この守護神に願い事やお祈りをする時には、自分の年齢の数だけコップで水をかける。 10時に日本国大使館を表敬訪問する。 斎藤大使直々のご挨拶の後、佐藤防衛駐在官のブリーフィングを拝聴する。 斎藤大使は十月初旬に着任、佐藤防衛駐在官は六月交代したばかりである。 大使の信任状奉呈式は11月3・4日にネピドーであった由。 話題の中心は11月7日の総選挙の動向やミャンマーの国防情勢等についてであった。 大使の挨拶の後、記念撮影。11時半頃大使館を辞し、昼食。
13時30分、イエウェイ日本人墓地にて慰霊行事をおこなう。 佐藤防衛駐在官、小林領事が正装で式に参列する。会長が「祭文」を奏上し行事は無事終了。 この墓地は1999年2月に完成し、日本人会(在留邦人約5百名)により維持・管理されており、約3エーカー(約3,600坪)の広さがある。 中央に日本政府建立の慰霊施設があり、その周辺にビルマ戦に参加した各兵団の慰霊碑や、古くからの「からゆきさん」の墓石などもある。
慰霊行事の後、15時に軍事博物館を見学する。 広大な建物のなかに第二次大戦中に使用されたC47輸送機やスピットファイア戦闘機などが展示されている。 11月中旬に施設は新首都ネピドーに移転するとのことであった。 30人のビルマ独立義勇軍創設当時の勇士の写真や、アウン・サン将軍の写真などヤンゴンで見られるのは、我々が最後とのこと。 16時頃、ビルマの人達が一生に一度は参詣したいというシュエダゴン・パゴダを拝観する。 ヤンゴン市の中央に所在し、建造物の屋根屋根は金箔で覆われ、夕日を受けて燦然と輝いている。 黄金に輝く聖なる塔の高さは99.4b、周囲は4百b以上もある。 一番高い塔は仏陀より直接8本の聖髪をもらい受け、紀元前585年に奉納したのが始まりといわれる。 今から2千6百年も前に起源を持つこのパゴダは、偉大なる聖地なのである。 人々は、自分が生まれた曜日の神々に水をかけ熱心に祈っている。 人々の信仰の厚さも、深さも、その近親性もただならぬものを感じさせられる。 ミャンマーの人々はみな驚くほどに熱心で敬虔な仏教徒なのだ。 お弁当をさげて、毎日パゴダに通い、膝まづき、祈る。 寺院の至る所に座って、どちらかというとみな、お弁当を食べにきているように見える。 そして目の前に広がる、この巨大な輝きは、ただただ驚くばかりである。 17時30分ホテルに戻り、18時30分から佐藤防衛駐在官夫妻、小林領事を招き夕食会。
26日(火) 3時30分起床、5時ホテル発。 6時30分発国内便(ヤンゴン・エアウエイ)でバガンへ向かう。 7時50分バガン着。 バガンは11世紀に初めてビルマを統一したバガン王朝の古都で日本の平安末期から鎌倉時代にかけて大小3千ものパゴダが建てられた。現在2千217基が確認されている。 世界三大仏跡(インドネシアのポロブドール、カンボジアのアンコールワット)の一つである。 他の遺跡は世界遺産に登録されているが、ここは世界遺産として認められていない。 それはミャンマーがユネスコが管轄する「世界遺産条約」に唯一調印していない国だからである。 バスでニャンウー丘陣地跡(英第4軍団がイラワジ河を渡河し、橋頭堡を築いた地点)に向かう。 この丘には、古いパゴダと第33師団(宇都宮)歩兵第215聯隊(高崎)第2大隊長晋田孝二大尉の慰霊碑がある。皆で黙祷し、ご冥福を祈る。 10時、イラワジ河河畔に行くも河川の増水のためインパール戦慰霊の場が水没し、他の場所にて慰霊を実施することに。 折角の機会なので、河の中央にある中州までイラワジ河を往復する。 中州までの河幅約1`、往復所要時間約1時間であった。中州ではヒマが栽培され羊や山羊が放牧されていた。 河岸では、お土産売りの子供が纏わり付く。
11時30分、タンビニュー僧院に行く。 僧院内に第33師団(弓兵団・宇都宮)の慰霊碑があり、全員で黙祷する。 第33師団はビルマ占領からインパール作戦、イラワジ会戦にとビルマの主ともいえる師団であった。 僧院の横にあるタンビニュー・パゴダを拝観する。バガンで一番高いパゴダ(65b)である。 白と金のコントラストが際立つ美しい寺院である。 中の壁画は殆ど残っていないが、一部分見られる箇所があり、美しい模様であった。 寺院の前の小さな土産物店で「たまりんど」の実を干して砂糖でくるんだ、味は甘酸っぱい干しぶどうと干しあんずをたして二で割ったような味の菓子を売っていた。 一袋日本円で8円程度と格安である。日本人好みの味かも知れない。 昼食後アーナンダ寺院へゆく。高さ50b、63b四方の正方形のパゴダである。 アーナンダとは釈迦の一番弟子の名前である。 華麗で均整のとれた美しい寺院である。 東西南北に四つの入口と参道があり、内部には回廊が二重にある。 内側の回廊は、王族と宮廷人用で、外側は庶民用。 四つの参道入口の奥には、それぞれ高さ9.5bの仏像が安置されている。
バガンは漆工芸でも知られている。 14時30分、漆工房を見学し、お土産に小さな梟の置物と馬の尻尾の毛と竹を寄り合わせ、その上に金と黒の漆で模様付をした湯呑みを買う。2万チャット(約2千円)。 16時にホテルにチェックイン後、シュエサンドー・パゴダへ行く。 バガンの中心に建てたパゴダで、五層の四角形の基壇の上に八角形の部分、さらに釣り鐘型の建造物が乗っている。 五層の基壇を貫いて登ることができる。 55段の急な階段を登り5階のテラスよりバガンの街を一望する。 1057年アノーヤター王にて建立されたこのパゴダの上から、イラワジ河と夕日、それに夕焼けの中のパゴダ群の景色を眺めようと多くの人が訪れる。 17時30分、テラスから日没に暮れゆくパゴダ群を見る。この展望に全員感動する。
18時30分、ミャンマーの伝統芸能である人形劇を鑑賞しながら夕食。 昼・夕の食事にはミャンマービールを注文するが大瓶で3千〜4千チャット(3百〜4百円)である。 20時30分、ホテル(バガンタンホテル)着。 ホテルはコテジ風の幾棟もの平屋建ての独立した建物からなり、我々の部屋はイラワジ河に直接面しており、河を行き交う船が夕日を浴びゆったりと窓を横切る風景は、日本では味わえない風情である。 27日(水) 5時15分起床。 7時、ホテル発メテイラーに向かう。 途中には、前週のサイクロンの被害で道路の崩壊箇所が至るところで見受けられる。 メテイラーは、1945(昭和20)年2月28日〜3月28日の間、ビルマ方面軍(後方兵站部隊・第53師団・第49師団等)と英第4軍団との激戦地である。 英軍は戦車を先頭に、ニヤングから3日をかけて約150`の距離を進撃した。 この辺りは乾燥高温地帯で、砂糖椰子の林が目に付く。 この椰子から黒砂糖や椰子酒、蜜などを作り、土産物として売っている店に立ち寄る。 11時頃、メテイラーに着く。 まず第2師団第16聯隊(新発田)の慰霊碑のあるトゥンボ僧院で慰霊を行う。 11時30分〜12時30分の間、世界平和を願うというナガヨン・パゴダを拝観する。 寺院の堂内の壁に「ビルマ方面軍」「菊兵団」「山砲兵第18聯隊」「第56師団司令部」等々の慰霊の銘板が嵌め込まれている。 庭には日本軍の軽戦車の一部も置かれている。
戦時中この町は、英軍の砲爆撃で廃墟となった。 市街は北と南の湖に挟まれている。周辺には当時、東・西・南・北の四つの飛行場があったが、今も北飛行場は軍の基地として、東飛行場は訓練場として使用されている。 昼食後、当時の野戦病院跡(今は小学校として使用)に立ち寄る。 学校は休暇中で、女性の校長先生が建物内を案内してくれたが戦時中の物は何もない。 14時、マンダレーに向かう。 途中、10`程北上し、第18師団(菊)歩兵第56聯隊(久留米)の激戦地を通過した。 マンダレー街道のメテイラーから六マイルの地点である。 菊兵団が雲南戦線から後退し、メイミョウに集結中、メテイラー陥落(3月3日)の報により、急遽その奪還命令を受け、先遣の第56聯隊第1大隊が、陣地構築中にメテイラー方向からやってきた十数両の英軍戦車の急襲を受け壊滅的打撃を被った。 マンダレー街道の巨木の並木は素晴らしい。 巨木の陰と気化熱で暑さを防ぐ生活の知恵である。 途中から有料道路(路面の状態は悪い)を走り、17時、マンダレーのホテル(セドナホテル・マンダレー)に着く。 約3百`の行程をバスで移動した。 我々の乗った大型バスは日本製の中古で、「豊鉄観光」と書かれていた。 28日(木) 5時15分、起床。 7時、ホテル発。 マンダレーで目に付くのは僧侶の托鉢する姿である。 マンダレーからサガインにかけてはミヤンマーの仏教の修行地でもある。 1886(明治19)年ビルマを侵略した英国はマンダレーにあった最後のコンバウン朝の王をインドに追放し、この国を植民地にした。 7時20分、クドード・パゴダを訪れる。 朝が早いので人がほとんどいない。何基もの小型のパゴダが整然と並ぶ。 次いで8時、チーク材で作られた彫刻の美しいシュエナンド僧院の写真を撮る。 8時30分、第15師団(祭)歩兵第67聯隊(敦賀)が最後に激闘(3月6日〜9日)したマンダレーヒルに軽トラック2台に分乗して登る。 標高236bの頂上付近にある日英両軍戦没者慰霊碑前で黙祷する。 頂上からの眺めは素晴らしくイラワジ河西岸地区一帯が見渡せる。 頂上の建物の柱に、「1945年3月8日グルカライフルこの地を占領」の銘板が誇らしげに嵌め込まれている。 下山の途中、ランゼディにある、戦死した日本兵の叔父を追悼するために、個人が建立したパゴダで黙祷する。 10時、旧王宮を見学する。 王宮は第15師団が立て籠ったために、英軍による砲爆撃で破壊されたが、戦後復旧された。
11時、サガインヒルへ向かう。 途中イラワジ河に架かる新設されたアバの橋を渡る。下流に軍が管理する鉄道と自動車道共用の橋が見える。鉄橋はビルマの緒戦で、敗退する英軍により爆破され、1954(昭和29)年に再建された。 12時頃サガインの街に着き昼食をとる。 13時、ジプニー風の軽トラックに全員が乗りサガインヒルに登る。 東方はるかにはマンダレーヒル、山裾には大小の寺院の屋根とイラワジ河とアバの鉄橋、西には広漠たる平野が広がる。頂上からの眺めは素晴らしい。 そこにはビルマ戦で戦った各兵団の慰霊碑が並ぶ。 この慰霊碑群のそばに「日本パゴダ」がある。 第31師団(烈)の第168聯隊(佐倉)の戦友会が3年がかりで昭和51年に完成した。 高さ20b。塔の部分は金箔が貼られている。基部に戦没者名と寄進者名が刻まれている。 第168聯隊はサガインヒルの守備についていたが、昭和20年3月10日、殿部隊として最後にイラワジ河南岸に撤退した。 そのため仏都サガインは戦火に見舞われずにすんだ。 集会室で慰霊行事を行う。
14時30分下山し、10`ほど北にあるカウンムード・パゴダを訪れる。 日本兵は「おっぱいパゴダ」と呼んだ。 高さ45五b、サガイン一の偉容を誇る。 ここでは自然化粧品である「タナカ」(白粉、ミヤンマー人は日焼け防止に顔に塗る)の原木やごま煎餅などを売っている。 ミヤンマーは翡翠やルビーの産地であるが、お土産品で売っているものの真贋は定かではない。 インパール作戦後敗退する日本兵はこのパゴダを目指して退ってきたが、途中で倒れ、その死骸が累々として連なり、白骨化し、故にこのパゴダの前を通る道は「白骨街道」とも「靖国街道」ともよばれた。
アバの橋を渡り来た道をマンダレーに戻る。 帰途2百年前に造られたチーク材の橋長約1`、幅約1.5bのウ・ペイン橋を見る。 マンダレーはミャンマー第二の都市であり、中国との交易関係も盛んで、バイク、自転車、自動車も多く活気が溢れている。 街の中心部は碁盤の目状に道路が整備されていて、通りには総て番号が付けられている。 17時、ホテル着。 18時30分から夕食会を兼ねて解団式を行う。 雲南風鍋料理に舌鼓を打つ。 夕方ホテルの庭で結婚披露宴があり、タイの女性よりミャンマーの女性の方が美しく感ずる。 29日(金) 4時起床。 マンダレー街道を30`程南下し新設の空港から、7時55分発国内便にて途中バガンに立ち寄りヤンゴンへ。 9時55分、ヤンゴン着。 10時30分、国立博物館を見学(王朝時代の品々や、少数民族の衣装等を展示)し、次いでヤンゴン市内を見学(ヤンゴン大学はかってビルマ方面軍司令部が所在、ヤンゴン河の港、イギリス植民地時代の建物など)する。 一般のスーパーマーケットやアウンサンマーケット(日本のアメ横に似る)で買い物をする。 19時45分、ヤンゴン発タイ航空306便でバンコクへ。 23時50分、バンコク発タイ航空642便で成田へ。 30日(土)8時10分、成田着。 台風14号の影響で成田は雨。 気温も14度と低く、寒く感ずる。 全員体調を崩すことなく無事帰国したのが何よりであった。 おわりに 20年ぶりの総選挙に関連して、タイとの国境付近では少数民族と政府軍との武力衝突が発生している。 軍政は「多民族国家の統一」のために必要との考えにも一理あり、アウン・サン将軍への国民の思慕未だ衰えず、その娘スー・チーさんへの期待も理解できる。 軍政や独裁政権の暗さや圧迫感などは、旅行間にはそれほど感じなかった。 インフレがいかに深刻な状況であろうと、農産物が豊富に採れ特に米がよく生育し、国民が飢える心配がないからであろうか、国民に暗さはない。 また、国民の大半が仏教徒であり、小乗仏教の教えを守り、清廉潔白な日常生活に努めている国民性にもよるのであろう、旅行間、安堵感を覚えさえした。 近年、ミャンマーへの中国の進出や北朝鮮との関係修復などの動きが活発である。 ベンガル湾のシーレーンを制する位置にあるミャンマーは日本にとっても重要な国である。 ガイドのカインさんは日本語も上手で良く勉強し、自国の文化や風物の説明に努力していた。 日本人観光客にミャンマーにある日本軍戦没者の慰霊碑などについて詳しく説明して貰えたらと思う。 ミャンマーの発展と、親日的なミャンマーの人々の幸を心からお祈りする。 (写真提供:宮城県郷友会・阿部勝雄氏) |