インドネシアへの旅
                                      常務理事 勝木 俊知


 はじめに
 今回の旅行(平成21年10月)の目的は、インドネシアにある大東亜戦争時の戦跡を巡り、英霊に慰霊の誠を捧げるとともに、「日本人の自信と誇りを深め」、「世界で最も親日国家の現状を観る」ことであった。
 日本の五倍の面積をもち、国内に時差のある広大なインドネシアを、わずか九日間で攻略した大東亜戦争開戦劈頭の南方作戦における日本軍の精強さや、終戦後もインドネシアに残り、その独立に力を貸した残留日本軍将兵の活躍を知る時、また現在のインドネシアの発展を観る時、まさに当時日本が掲げた「大東亜共栄圏」が形成されているのを実感する。いろいろと問題はあろうが日本政府のインドネシア政策は戦前も戦後も間違ってはいないと思った。

          
     日本人墓地にて祭文奉読する会長
          
 
 10月18日(日)| 往 路
 午前11時過ぎに成田空港を離陸して、バリ島デンバサール空港(ングラライ空港)には午後5時半ころ着く。日本とバリ島との時差は1時間(日本では午後6時半)。国内便に乗り継ぎ、ジャカルタ空港に向かう。ジャカルタ空港(スカルノ・ハッタ空港)には夜の8時ころ着く。バリ島とジャカルタ間にも1時間の時差があり、日本との時差は2時間あり、日本時間にすれば夜の10時に到着したことになる。
国内便への乗り継ぎの時間が2時間程あり、その間に空港内で円とインドネシア通貨のルピアと交換する。円は約百倍の強さであり、1万円を両替すると、約百万ルピアで返ってくる。ルピア紙幣には、10万、5万、2万、1万、5千、千、5百の7種類があり、端数のおつりのために、千、5百、2百、百、50の5種類の硬貨がある。空港での換金により、金持ちになった気分になる。特に円高の時期でもあり、円の強さを実感し、有難く思う。
 ちなみに、インドネシア国産の「ビンタン」という銘柄のビールは、レストランで大瓶1本3万ルピア、スーパーで買えば同じものが1万5千ルピアである。最初値段を聞くと驚くが、日本円に換算すると300円および150円である。
 インドネシアは国土の大半が南半球の赤道寄りにあり、年平均気温は27度であるが、旅行間の気温は35度前後であり、直射日光の日ざしは強い。乾期とはいえ、蒸し暑く、毎日午後にはスコールに見舞われた。この日は、夜10時頃ホテルに着く。
 
 10月19日(月)| ジャカルタ
 朝九時にホテルを出発し、カリバタ英雄墓地に向かう。この墓地には、1945年から49年の間に、イギリスおよびオランダとの独立戦争で戦死した将兵、そして戦後に亡くなった元将兵約7千名が埋葬されている。広大な敷地と巨大なモニュメント、そして手入れの行き届いた緑の芝生に整然と並ぶ墓標。強い日ざしに照らされて、白く輝く慰霊碑には、英霊の功績を称え、慰霊の言葉が刻まれている。この慰霊碑に花輪を献げる。 独立の英雄としてこの墓地に埋葬されることは、インドネシアでは最高の栄誉とされている。
独立戦争を戦った27名の残留日本軍将兵もここに埋葬されている。墓標には氏名と出身地が刻まれており、鉄帽(ヘルメット)が供えられている。元日本軍将兵地区の墓前にて献花し、寺島団長が祭文を奏読し、全員で黙祷する。日本に帰国することができたにもかかわらず、遠い異国の地において、他国の独立のために戦った日本軍将兵の御霊に心からなる慰霊の誠を献げる。

 墓地を後にして、旧市街であるバタビア地区を訪れる。この地区にはオランダ植民地時代の建物が多く残っており、当時使用された運河も健在だ。日本陸軍・第16軍司令部(今村均中将)のあった建物は、博物館として利用されているが、月曜日は休館日であった。午後はスカルノ大統領が15年の歳月をかけて建てた独立記念塔モナスを訪れる。137bの高さの塔はジャカルタ市のムルデカ(独立)広場中央に聳え、最上階は展望台となっている。エレベーターで展望台に昇る。当日は視界が良く、ジャカルタ市街を一望できた。 塔の地下はインドネシアの歴史博物館となっており、ジオラマによる展示は、インドネシアの古代から現代までの歴史がわかるような仕組みになっている。スカルノ自筆の独立宣言書もある。

               
独立記念塔モナスの偉容
          

 見学を終え、午後2時半頃日本国大使館を表敬訪問する。 防衛駐在官の杉本1海佐から「インドネシア事情」と題して、自衛隊国際緊急援助隊の地震被災地パダンでの活動状況やインドネシアの歴史、さらに最近の日・イ関係特に海軍関係者との情報交換などの状況と将来の両国関係のあり方などについて、約1時間のブリーフィングを受ける。
 当日は、翌日がユドヨノ大統領の2期目の就任式があり、日本政府の特使として、民主党の渡辺恒三議員が派遣されてきており、また、9月30日に発生したパダン沖地震に対して派遣された自衛隊国際緊急派遣隊の帰国する日でもあり、大使はじめ主要な館員は多忙であった。特に、パダンでの日本の国緊隊の活動には、インドネシア政府は多大の感謝をしている、との杉本1佐の話には一同我がことのように誇りに感じた。

               
日本大使館で記念撮影
          

 午後4時ころ大使館を辞し、ジャカルタで一番大きいイスティクラル・モスクに向かう。5時少し前であったが2万人を収容できるという広大、かつ絢爛豪華なモスク内は女性のたむろする姿があちこちに見えるものの閑散としていた。 床の大理石が裸足の足裏に心地よい。ここで2万人の人たちがお祈りをする様子を想像する。モスクを見物後は、日本が戦後賠償で最初に建造したサリナマーケットにて買い物をしてホテルに戻る。午後7時から夕食を兼ねた結団式を行う。

 10月20日(火)| パレンバン
 4時半に起床し、空港に向かう。パレンバン行きの国内便ライオン航空に乗る。離陸が遅れ10時にジャカルタを発つ。11時にパレンバン空港着。昭和17年2月14日、日本陸軍落下傘部隊339名が攻略目標とした同じ空港内を、インドネシア空軍の基地管理隊指揮官の案内で、バスにて巡回する。
 空港内の滑走路は拡張され、よく整備されている。国内便と空軍の訓練用飛行場となっている。基地周辺には、住宅地が散在するが、今も湿地帯と灌木林が昭和17年頃の面影を残している。この湿地帯に、午前11時半に降下して、翌日の未明には約2千名のオランダ守備軍を駆逐した日本軍の勇戦敢闘を思い浮かべ、心が奮い立つ。滑走路脇には、当時のオランダ軍トーチカが残っていた。

               
滑走路脇に残るオランダ軍銃座
          

 昼食時には、乾期のこの時期には珍しく激しいスコールであったが、小やみになったのをみはらかい、落下傘部隊のもう一つの攻略目標であったプラジューおよびスンゲィゲロン地区の石油精製所に向かう。この製油所の当時の年産4百万キロリットルの量は、日本の年間石油消費量にほぼ匹敵する量であった。降下部隊99名は、この地域も2日連続の激闘のすえ、ほぼ製油施設を無傷で占領し、作戦目的を達成した。この地域は現在はプルタミナ国立製油所となっている。
 そのプラジュー地区を、広報官の案内で巡回する。オランダ植民地時代の社宅が今も使用されており、日本軍の管理時代には、当時の日本本国では珍しい住居の設備の良さに、日本から来た人たちはみな驚いた。現在の製油量は当時の約15倍とのことであった。精油所はムシ河に面しており、この河の海までの約百`bは、タンカーの航路になっている。その河に、日本の戦後賠償で建造された「アンペラ橋」が架かっている。当日は、ムシ河は上流の降雨の影響で、流れも速く、大量の水草が3百b近くある河幅を埋めるように流れていた。

 あちこちで見られる戦後賠償で造られた建造物を見るにつけ、インドネシアの発展に日本が戦後も大いに貢献し、それがまた日本の経済的発展にも影響を及ぼしているのを実感した。ちなみに「アンペラ」の意味は、「虐げられたものへの償い」というインドネシア語の文言の頭文字を連ねた略語である。賠償を得るためには、自国を犠牲者とし、日本もまた、賠償するために加害者となる理由づけが必要だったのであろう。
 パレンバンの住宅地には、今も日本軍の掩蔽壕跡や、司令部として使っていた建物などがある。それらも見ることが出来た。 夕方5時頃、日本人墓苑に着く。30坪程の土地のなかに立派なお堂があり、41名の落下傘降下将兵の御霊も祀られている。当地の日本人会の手によって維持管理されており、手入れも行き届き、周囲の中国人墓地の草むらと化した様子とは画然とした差があった。ここで、日本人会会長塚平氏の墓地建立の説明を聞き、花輪を献花し、一同黙祷を捧げてお堂に眠る人々を慰霊した。
 その後、夕食をとり夜8時頃ホテル着。

              
日本人墓苑の説明をする塚平氏
          

 10月21日(水)| ボゴール
 3時45分起床。6時パレンバン発のライオン航空にてジャカルタに戻る。7時ジャカルタ空港着。8時からジャワ国立博物館を見学する。古代からの貴重な遺物が展示されている。ジャワ原人の頭蓋骨や、金製品などの貴重な物は本物のかわりに複製品が置かれている。広い館内を駆け足で巡る。
 10時頃から近くにある軍事博物館に行く。ここは、スカルノ元大統領の第3夫人だったデビ夫人の邸宅跡で、大統領没後政府に売却された。 その代金で夫人親娘はパリでの裕福な生活が出来たという。博物館には、独立戦争当時使用された兵器類や、米国製B25ミッチェルやP51ムスタングなどの軍用機、日本の中型練習機、米軍装甲車などが展示され、保存状態も良く圧巻である。

               
軍事博物館に展示されたB25
          

 昼食後、ジャカルタから南に約60`離れたボゴールに向かう。午後2時頃ボゴール宮殿に着く。標高280bのこの地は避暑地として、1745年にオランダ総督ファン・イムホフが造らせたもので、現在は大統領の夏季の別邸として、また迎賓館として使用されている。内部には、外国の大統領や国王からの贈り物が数多く展示されており、美術館・博物館ともいえる。
 昭和天皇が贈られた横山大観の富士山の絵や、現天皇陛下が皇太子時代に贈られた雛人形などが目についた。かつて訪問された美智子妃殿下のために、1万人の女子学生たちが、「愛国の花(ブンガ・サクラ:スカルノ元大統領作詞)」を合唱し、歓迎したといわれる。内部は、大統領夫妻の寝室はじめ会議室など、宮殿管理主任の案内で隅々まで観ることが出来、また許可を得て写真撮影も可能であった。見学の終わり頃激しいスコールがありバスまでに距離があり、濡れるのを心配したが、宮殿管理主任の配慮でバスを宮殿裏口に横付けにして貰い、こと無きを得た。
 昭和天皇が贈られた二頭の鹿が、今では大きな群れを幾組も作るほどに繁殖し、庭園内のあちこちにあるガジュマルの大木の木陰に寝そべり、のんびりと憩うているのが印象的だった。

               
ボゴール宮殿内の大会議室
          

 次に、PETA(ペタ=郷土防衛義勇軍)訓練場跡に設けられたペタ記念館を訪れた。 正面入り口には、ペタの前身であるタンゲラン青年道場の1期生で、インドネシア独立後の初代国防大臣になったスプリアディ氏の、青年道場時代の軍服姿(日本陸軍の軍服に酷似)での銅像が立っている。門を入った正面にも氏の銅像があり、その周りには、ペタ卒業者3万8千名の氏名を刻んだ銘板を嵌め込んだ壁が取り囲んでいる。建物の内部には、ペタの創設・独立戦争での戦い・独立・インドネシア軍創設など、インドネシア建国に至る過程で、ペタの役割がいかに重要だったかがジオラマにより説明されている。平成21年3月1日には、スプリアディ氏の銅像除幕式がユドヨノ大統領(大統領はペタ第2期生)出席のもと行われる予定であったが、大統領選挙にかかわる政争のあおりで中止になった。
 ペタ創設の原動力の一人である日本陸軍・柳川中尉が重視したのは精神教育であった。特に「独立は自らの手でかちとれ」、「死ぬまでやれ」の合言葉は、常に強調された。その合言葉のもと、独立戦争では約80万人のインドネシアの人々が命を捧げた。

               
スプリアディ氏の銅像
          

 4時頃、バスでバンドンに向かう。バンドンへは約120`の距離であるが、標高1200bの峠を2つ越える。その峠に至る山の斜面全体が茶畑になっている。まさにジャワティーの産地である。絶景であるが、スコールの名残と、夕方でもあり視界があまり良くないのが残念。 夜7時頃ホテル着。

 10月22日(木)| バンドン
 5時半起床。8時ホテル発。バンドン大学を見学。バンドン市には27の大学があり、まさに大学の街である。バンドン大学の前身はオランダが創設したバンドン工業高等専門学校でスカルノ元大統領が卒業した学校である。1ヵ月の授業料は日本円で約5万円程度とのことであった(案内人ダッソーさんの言)。車やバイクで通学する学生の姿が見られ、かなり裕福な家庭の子女が多いと見受けられた。校内にはガジュマルの大木があちこちに緑陰を造り、落ち着いた学園の雰囲気であった。

 1955年4月18日に第1回アジア・アフリカ会議が行われた会議を、特にバンドン会議と呼ぶ。その会場となったバンドン会議記念館を訪れる。建物は、1850年オランダ植民地時代に造られ、日本軍統治時代は大東亜会館と呼ばれ、上流階級の社交場として使用された。内部は、バンドン会議の記念展示館となっていて、中・高校生の見学が目立った。当時、日本からは鳩山一郎首相の代理として、高崎達之助経済企画庁長官が出席したが、その発言が消極的であると報ずる当時の読売新聞のコピーが展示されている。この会議において、平和五原則を拡張した平和十原則が定められた。この会議は、初の非白人国家だけによる国際会議でもあった。

               
参加国の国旗が並ぶバンドン会議記念会場
          


 見学後、昭和17年3月10日以降、日本陸軍・第二師団司令部が置かれた「平和」という名の旧オランダ軍兵営跡を観る。
 早めの昼食をとり、高速道路にてジャカルタに戻る。途中、高速道路脇にあるバンドン要塞の一角を通過する。オランダ軍の早期降伏を導いた東海林支隊の若松挺身隊7百名が突入したレンバンの山頂線付近である。
 3時40分頃、ジャカルタ空港着。ガルーダ航空の国内線でジョグジャカルタに向かう。航空機は5時発の予定が遅れ、5時45分頃搭乗し、6時50分にジョグジャカルタに着く。夕食時春添さんの誕生日を祝し、9時頃ホテル着。ここ3日間、朝早く夜遅い日が続き、皆さんかなりお疲れの様子。

 10月23日(金)| ジョグジャカルタ
 9時ホテル発。午前中は、市内にある藩王の宮廷と、その別邸(水の家)を観る。広大な屋敷と、室内の調度品の見事さ、それに別邸のプール施設の贅沢さは、藩王の財力を想像させる。今は、さまざまな会社経営と、州議会議員で収入と公的地位を保持しているとのことである。

 午後は世界遺産であるポルプドール仏教遺跡に行く。ジョグジャカルタ北西42`にある巨大な仏教建造物である。世界が誇る三大仏教遺跡の一つで、世界遺産に登録されている。8世紀後半から9世紀前半ごろにかけて築かれた、高さ約35b、総面積1万5千平方bにもおよぶこの遺跡は、かって寺院として人々に信仰されてきた。密林のなかに突如現れる様は異様である。公務員でもある案内人は日本語も上手で、お釈迦様誕生から悟りを開くまでの過程を表すレリーフをユーモアを交え、分かり易く説明した。しかし、この場所を職場とする土産物売りの多さと、しつこさには辟易する。スコールを心配し、傘を持っての見学であったが、幸い、雨に遭わずにすんだ。

               
ポルプドール仏教遺跡
          

 ジョグジャカルタは、銀細工とバティクでも有名であり、その工房を訪ねる。銀細工では、美智子妃殿下がお求めになったものと同じデザイン、大きさのブローチが、日本円で1万円程度で買え、日本人には人気があるとのこと。バティクはハンカチが一枚千円くらいであった。これらの工房では、好みの品を日本円やドルで買える。
 8時30分発のバリ島デンパサール空港行きのライオン航空便が遅れ、9時20分頃離陸する。バリ島には時差の関係で、11時40分頃に着く。ホテルには、24日の0時10分頃にチェックインした。

 10月24日(土)| バリ島
 宿泊したホテルのすぐ前の海岸に、昭和17年2月19日、金村支隊(第48師団台湾歩兵第1聯隊の一部)が上陸し、20日にはバリ島を無血占領した。
 7時30分ホテル発。バリ島にあるマルガ英雄墓地に向かう。ここには1946年11月20日オランダ軍との壮絶な戦闘で玉砕したングラライ中佐率いる義勇軍部隊94名の他、インドネシア独立戦争で戦死した1372名の将兵が埋葬されている。そのなかに、終戦後も残留しングラライ部隊に属して戦死した12名の元日本兵も含まれている。
 バリ島はヒンズー教徒の島で、当日は日本のお盆のようなお祭りの日に当たり、家々では七夕のように椰子細工で飾り立て、神々にお供え物をして先祖を供養する日であった。この墓地でも、改まった服装の一家が、お供え物を持ちお参りに行くのに出会った。バリ島で気づいたのは、日よけのための街路樹がどこに行っても見られることである。また、米は三毛作で、水田には稲穂がたわわに実っていた。ジャワ島では、バンドンからジャカルタに戻る途中の高速道路脇の山地には、棚田がいたるところに見られ、水牛が耕作の原動力になっていた。
 手入れの行き届いたマルガ英雄墓地にて、元日本兵の墓前で全員黙祷をする。

               
マルガ英雄墓地の日本人名の墓標
          

 墓地を後に、ブサキ寺院に向かう。標高3142bのアグン山の南麓にあるこの寺院は、バリ・ヒンドゥー教の総本山である。荘厳な雰囲気が漂う中に、大小30あまりの寺が建ち並ぶ巨大な寺院の複合体である。バリ島には2万とも3万ともいわれるヒンドゥー教の寺が存在する。その寺を統括する総本山である。
 祀られている神々は、破壊神シヴァ、繁栄神ヴィシュヌ、創造神ブラフマンの三大神である。そのヒンドゥー三大神を中心に、多くの神の祠が囲むように配置されている。
駐車場から、緩やかな参道を5百bほど登ると、目の前にブサキ寺院の中核となるシヴァ神を祀るプナタラン・アグン寺院が偉容を現す。アグン山を背景に、ヒンドゥー寺院独特の巨大な割れ門が聳え立ち、その奥に格式の高さを示す11層の大門や、9層または11層のメル(重層屋根を持つ奇数の塔)が見える。境内には一般の客は入れないので、左右の階段から壁越しに中を窺うことになる。当日はお祭りでもあり、30あまりあるどの寺院も着飾った信者が溢れ、先祖供養で賑わっていた。
 バリ島は、1ヵ月を35日、210日を1年とする暦を使っているため、西暦換算で年間55回の祭礼があるとのことであった。

               
寺院内での先祖供養の儀式
          

 問題は、この寺院に寄生するバイクのタクシーと私設ガイドである。駐車場から寺院正面までは徒歩で10分くらいだが、上り坂故歩くのも大儀である。そのためバイクのタクシーが屯していて、しつこくつきまとい利用することを強要する。片道2万ルピアが相場だそうだが、往復で5万ルピアを要求し、かつ、チップまでしつこく強請する。相手が一人ならば断ることも容易であろうが、仲間が集まってきて取り囲まれるとそうもいかなくなり、なにがしかのチップまで渡してしまう結果となる。 私設ガイドも同じである。頼みもしないのに勝手に横に来て寺院の説明や、案内をする。見終わった時に、謝礼を要求する。日本円で千円から2千円だという。
 こちらはガイドを頼んだ覚えもなく、相手が勝手に付いてきただけなのに金を払うことになる。この付きまとい対策としては、強く「ノー・サンキュー」、「お金は持っていない、払わない」と断ることと、徹底的に完全無視することであろう。日本人はこの手の付きまといに弱い。日本からの観光客の中には高額のお金を払った挙句、不愉快な思いをした人が多いのではないかと思う。

               
ヒンドゥ神話を演ずるケチャックダンス
          

 見晴らしの良いレストランで昼食をとり、途中、銀細工の工房と絵画の村に立ち寄り、夕方、ヒンドゥー神話で有名なラーマヤーナ物語を演ずるケチャックダンスを鑑賞する。
 解団式を兼ねた夕食会の後、10時頃空港に向かう。25日0時35分発ガルーダ航空880便にて成田へ。

 10月25日(日)| 帰 路
 8時50分成田着。天候曇り。気温23度。今回は、酷暑地での1週間にわたる、かなりハードな日程の旅であった。全員無事に旅を終えることが出来、心から嬉しく思う。
 「インドネシアを縦断する雄大な企画」ではあったが、インドネシアの国内航空便4回の利用は、旅行全般に時間的な制約をもたらし、旅をハードなものにしたと反省している。

 また、帰国の便が成田に2時間ばかり早く着くことが可能になれば、帰国後の行動が容易になるのではないかとも思う。当日は、日曜日であり、通勤ラッシュにはあわなかったが…。
 愛媛県や福岡県から参加された方々にはさらに国内旅行がある。24時間使用可能な、ハブ機能を備えた国際空港の整備が望まれる。

 おわりに
 今回の旅行で、日本敗戦後のインドネシア独立や、その後の同国発展の背景には、日本陸軍・第16軍の軍政があり、残留日本軍将兵の身命を犠牲にしての独立戦争支援があり、さらには、日本政府の戦後賠償やODAが大きく貢献していることを痛感した。また、大東亜戦争開戦劈頭の日本軍の精強さを、今回のハードな旅のスケジュールから、身をもって体験した。
 このような大東亜戦争当時のことや、その後のインドネシア独立戦争時の歴史的事実をインドネシアに行く日本人は、知らねばならないと思う。

 さらに、インドネシアの現況は地震による自然災害が多発し、テロの頻発など日本から見れば、危険な国のように感ずるが、そこに住む人々は明るく、比較的清潔で、礼儀正しく、感性も豊かである。マラッカ海峡を制する国でもあり、日本の安全保障にとってもインドネシアは重要な国である。将来、日本との絆が、過去の歴史的事実を踏まえ、より深まることを祈って旅の締めくくりとする。