サイパン・テニアン島慰霊・研修旅行記 運営委員 冨田 稔 参加者 寺島泰三団長(日本郷友連盟会長)他 19名 日 程 平成20年11月14日(金)〜11月18日(火) 14日 成田発 サイパンへ移動(約3時間半) 15日 サイパン島戦跡研修 慰霊 16日 テニアン島へ移動(船1時間弱) テニアン島戦跡研修 慰霊 17日 サイパン島へ帰島(往路と同じ船) 午前 最高峰のタポチョ山から島内俯瞰 午後 自由行動(潜水艦海底ツアー等) 18日 午前 自由行動(市街散策等) 午後 サイパン発 帰国 【プロローグ】 昭和19(1944)年6月15日、米中部太平洋方面軍司令官ニミッツ提督隷下の第5艦隊(司令長官スプルーアンス大将)が、猛烈な爆撃及び艦砲射撃の支援下に、上陸部隊約7万1千人をもってサイパン島に侵攻した。 迎え撃つ陸海の日本軍約4万1千名は鬼神の如き戦いにより随所に米軍を脅かした。しかし、珊瑚礁の岩盤と灼熱の太陽の下、準備不十分なまま圧倒的な海空火力に晒され、急激に戦力を消耗していった。 戦局利無く、7月6日には中部太平洋艦隊司令長官南雲忠一中将、第43師団長斉藤義次中将等の主な将帥が自決、翌7日に残存将兵(1500〜3千名)が玉砕攻撃を敢行して約1ヵ月にわたるサイパン島での組織的な戦闘を終えた。 引き続き米軍は7月21日にグァム島に上陸(陥落8月11日)、次いで24日にはテニアン島に来襲した。テニアン島では、海軍第1航空艦隊(司令長官 角田覚治中将)、陸軍テニアン守備隊(隊長 緒方敬志大佐)等の将兵約8千4百名が2個師団の敵を迎え撃った。 サイパン島同様の岩盤に加え守りにくい平坦な地形、衆寡敵せず。米軍上陸から10日目の8月2日には、義勇兵を加えても僅か千名の残存部隊による玉砕攻撃が決行され、翌8月3日の夜明けとともにテニアンでの日本軍の組織的戦闘は終わった。 このわずか1ヶ月半の戦闘で、サイパン、テニアン両島において日米両軍合わせて約5万3千人という途轍もない数の戦死者(戦死傷者は6万6千人以上)が出た。 更に両島所在の民間人約3万6千名のうち約8500名が戦没した。この中には、島の端に追い詰められて断崖絶壁に身を投じた多数の婦女子が含まれている。 平成20年8月14日、我々は、成田空港を10時過ぎに離陸し海上約2400キロメートルを3時間半程(時差1時間を加え時計上は4時間半)で飛行して15時前には島の南端にあるサイパン空港に降り立っていた。 添乗員の古沢氏の誘導で使い古されたような大型バスに乗り、西海岸の町ガラパンのホテルに向かう。チェックインを済ませ、結団式を兼ねた夕食会の時間を待った。 待ち時間に、近くのアメリカ記念公園を散策した。あちこちとプルメリアの花を拾い歩いていたら、ホテルに戻る頃には日が傾いてきた。ホテルの窓から眺めた夕焼けは、穏やかで美しい。昔から変わらないであろう常夏の暑さのなか、やや湿気を含んではいるが新鮮な空気を胸一杯に吸い込んだ。雲の色が明るい朱色から深紅に染まっていく。ふと、戦いの中で倒れていく兵士の姿が脳裏を過ぎったような気がした。 11月15日8時に、昨日のバスに乗り込み、勇躍ホテルを出発した。 総員20名の慰霊・研修団員は、全員元気一杯である。ガラパンの町から海岸沿いの道を南下すると右手に米軍の上陸海岸が見えてくる。途中の道路脇にある「米軍の上陸記念碑」、「サイパン島民慰霊碑」、「戦没日本人の碑」等に詣る。 サイパン空港方向へ向かっていた車が、飛行場の手前で脇道に入り、南洋の木々の並木を回り込むと良く整備された広い草地に出た。中央に小高い土盛り(旧日本軍の覆土式の燃料タンク)があり、その先に石碑が並んでいる。北海道歩兵第89連隊第3大隊佐々木大尉以下618名、久留米独立砲兵第3連隊第3中隊小城中尉以下106名の戦死者の名が刻まれていた。両部隊の碑には、いずれも6月26日夜半に米軍占領下の飛行場に最後の突撃を敢行したことが記されている。
そのすぐそばにマリアナ歴史文化博物館がある。この博物館は、旧日本病院を改修した建物で、日本統治時代の写真や歴史的資料が多くあり、特にサトウキビの栽培で島内が潤っていた様子がよく分かる。そこから更に疎林を少し進むと、砂糖王公園というところに出る。砂糖王とは日本人の「松江春次」という人である。彼は、第1次大戦後に日本の国際連盟委任統治領となったマリアナ諸島で苦労してサトウキビ農園を切り拓いた人物であり、南洋興産の初代社長を務めた。整備された敷地内には松江氏の立派な銅像のほかにサトウキビを運んだ蒸気機関車なども置かれている。残念ながら、アメリカの統治領となった現在では、当時の農園はなく、島の主要な収入源は米国の補助と観光だけのようである。 まず到着したのは、最北端のバンザイ・クリフである。民間人の婦女子が海に身を投げた悲劇の岬、そのそばに慰霊碑の広場がある。目のくらむような断崖の先に広がる紺碧の海に向かっていくつもの碑が建ち並ぶ光景は、まさに慰霊の場に相応しい光景であった。戦友会、遺族会、青年会議所、宗教団体等、様々な団体や個人の慰霊の気持ちが建っていた。 後ろを見上げるとマッピ山の断崖絶壁が見える。その山頂に追い詰められた日本兵が飛び降りて自決したことから、スーサイド・クリフと呼ばれる一角がある。ちなみに、テニアン島ではサイパンのバンザイ・クリフにあたる場所をスーサイド・クリフとも呼ぶそうだ。 その麓に最後の日本軍司令部跡がある。 200メートルを越える断崖絶壁を間近に見ながら、その麓に至る。大きな海軍砲、日本軍軽戦車の残骸等が置かれた広場の後ろに、岩を削った狭い登り道がある。その先に司令部壕があった。砲弾で開いた大きな穴から日の光が差し込んでいる。絶え間ない砲撃、一弾が壕を直撃した瞬間、想像しただけで頭の中が真っ白になった。 企画担当の勝木常務理事と現地のガイド女史の絶妙なコンビによる戦史、景勝の説明にうなずきながら、東海岸沿いに南下した。美しいサイパン島の中でもとりわけの美観「バード・アイランド」、そして島内唯一の湧き水のある「マリア像の祠」、日本軍が立てこもった洞窟等を見学した。最後に日本軍に恐れをなした米軍が「死の谷」と読んだ地域を通って、ガラパンの町にもどった。平均年齢71歳、強行軍ではあったが、全員元気に宿に帰り着いた。 【テニアン島慰霊の旅】 翌日は9時に、ホテルを出発し、連絡船「テニアン・エクスプレス」に乗船してテニアン島へ向かった。船からの景色を楽しみにしていたが、出航直前にキャビンが閉鎖され、デッキには出られない。更にキャビンの窓は全て曇りガラスで、外は見えない。潮の流れが速く波が荒いので、酔い戻し用の黒いビニール袋が各席2枚置かれている。約1時間の船旅の後、テニアン港に上陸した。早速に行動を開始、昨日と同じような中古のバスに乗り組む。 まず、テニアン港を出て、近くにあるタガの遺跡公園に向かう。直方体の石柱の上にお椀型の大石を乗せたタガ・ストーンと呼ばれる古代原住民の遺跡がある。 この公園の一角には日米の戦死戦没者の霊を慰める慰霊碑が散在している。それらの慰霊碑に手を合わせ、タガの遺跡を後にした。 港の南に延びる海岸は、テニアン島で数少ない砂浜が続く上陸適地である。昭和14年7月24日に米軍が陽動攻撃(主力の上陸は珊瑚礁の岩場の続く北西部の海岸)を行った場所である。その海岸を右に見ながら少し走ると、古代チョモロ王朝の王様専用の水浴場だったといわれているタガ・ビーチにつく。海底まで透き通った少し緑がかった空色の海水。入り江で親子連れの数家族が海水浴を楽しんでいた。まさに画で見るような南国の楽園である。 島の南端にあるカロリナス台地の裾にそって、右手に海を見ながら回り込む。緩やかなカーブを描く海岸線の先に切り立った断崖の見える広場に出た。正面の断崖がバンザイ・クリフ、手前の広場に慰霊碑が並んでいる。 広場には、テニアン島で2千名を超す戦没者を出した沖縄の帰還者の建てた慰霊塔など、心のこもった多くの碑がある。それらの碑に向かって祈りを捧げた後、バンザイ・クリフの上に立つ。吹き上げる潮風と波に剔られた断崖のあまりの凄さに、声が出ない。 昼食後は、島中央部を一直線に貫通しているブロード・ウェイと呼ばれている道を北に向かった。その道の両側は刈り込まれた空き地がわずかに農園が在ったことを想像させる。と直線道路の終わりに農場跡地として日の出神社(日本の方角を向いている)の跡が保存されている。 その先には旧日本軍の海軍航空艦隊施設、米軍のB-29の出撃基地となった飛行場跡地等が保存されている。 潮吹き海岸から再び内陸に戻り、飛行場跡地の施設を見学した。海軍の第1航空艦隊司令部のあったテニアン島の海軍施設は頑丈な鉄筋コンクリートで出来ており、米軍の砲爆撃で相当破壊されてはいるが原型を止めていた。中部太平洋の通信中枢を思わせる通信所跡、生活設備が整っていたと思われる司令部跡、頑丈な防空壕、駐機場の片隅にある管制所跡などを見て歩いた。蜂が住み着いており、内部を覗くには十分な注意が必要である。 その地域に隣接して広島、長崎に投下された原爆を搭載した地域が保存されている。底にジャッキを備えた四角いコンクリートの穴があり、ジャッキの上に爆弾が設置された。その真上にBー29を移動させて爆弾を搭載した。広島用、長崎用の2箇所の搭載場が保存されている。 翌日、サイパン島に帰り、最高峰のタポチョ山に登った。山頂には、島の各正面での米軍の戦いが掲示されていた。南の方向にはテニアン島が平坦な地形を横たえている。二日間の慰霊旅行を総括するのに相応しい場所であった。
普通の旅にはない様々な体験をした旅行であったが、紙面の都合上、旅の主目的である慰霊に焦点を当てて記述した。 貴重な旅行を企画、準備し、あるいは現地での案内にあたって下さった方々に感謝し、旅行記を終える。
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