あとがき 美しい日本人像を教える


教育論議の不毛性


 教育問題は「躓の石だ」と論議の不毛性を嘆く声がある。
百家争鳴の賑やかさだった今回の道徳の「教科化論争」も紆余曲折の末大筋で現状維持、「泰山鳴動、鼠一匹」の感が強い。
 遡れば昭和26年、天野貞祐文相が提示した 『国民実践要領』も、昭和36年の中教審答申『期待される人間像』も、侃々諤々の論議を呼んだ。だが一過性の不発弾であった。

 昭和61年、戦後教育の総決算を目指した『臨時教育審議会』の第二次答申は、「危機に立つ学校教育」という認識に立脚し、豊かで便利な社会の到来が貧困、不便、不平等、抑圧等の逆境を消滅させた。
だが反面、人類が逆境の中で育んできた「自立心、自己抑制力、忍耐力、責任感、連帯感、思いやりの心、感謝の気持ち、祖先を敬う心、自然や超越的なものに対する畏敬の念等が衰弱した」と、逆境消滅のマイナス面を率直に指摘し、それを教育荒廃の主因として「徳育の充実」を提唱した。
だが実効は見られず、華麗な打ち上げ花火に終わった。

 平成12年、各界有識者を結集した小渕首相の諮問機関『教育改革国民会議』は「教育の荒廃は見過ごせないものがある。
このままでは社会が立ち行かなくなる危機に瀕している」と、臨教審同様の強い危機感を打ち出し「学校は道徳教育をためらわない」と学校及び行政を鼓舞激励、「徳育の教科化」にまで踏み込んだ。
だが教科化は「笛吹けど踊らず」であった。
現状維持の微温湯に浸かっている間に、20年前臨教審が警告した自立心、自己抑制力以下の道徳性の衰弱現象が、一段と深刻化した。
この事実は誰もが認めざるを得ないであろう。


放棄した武器を取り戻せ

 1983三年、学力低下と学校荒廃に悩むレーガン政権下のアメリカは『危機に立つ国家』という衝撃的な標題の教育改革を断行し、学校を立ち直らせた。同書に注目すべき記述がある。
 「我々は無謀にも教育上の武装解除を行なってしまった。現在の教育成果における凡庸さが他国から巧みに押し付けられたものだとするならば、それは一種の戦闘行為と見倣す。」

 日本では考えられない大胆な病根の摘出である。だから治療法も明瞭だ。
放棄した武器の回収、つまり20世紀初頭のアメリカの学校にあった猛勉強の気風と厳格な規律の復活である。
 振り返れば、寿司詰め学級時代の日本の子供の頑張り精神、教師の指導技術、整然とした校内秩序は、世界が注目した我が国義務教育の長所であり、経験で言えば勉強に対し誠実な子供は、概して礼儀正しく「道徳的実践力」も身に付けていた。

 昨年の参院選で自民大敗。安倍首相が掲げた「戦後レジームからの脱却」の重要課題だった「教育再生」が挫折した。
このことは日本弱体化を至上命題とした占領政策及び革命を究極の狙いとした左翼運動 (日教組教育を含む)の残存を意味する。
 『危機に立つ国家』の「戦闘行為と見徹す」の一節は日本にも当てはまる。
米国の成功例を逆輸入すれば為すべきことは、「銃声なき精神の戦争」の敗北で放棄した武器の回収となる。
道徳教育の喫緊の課題は「徳目主義・人物重視」で心と形を正し「美しい日本人像」を教えた、修身教育の再評価であろう。
 歴史に学べば国民道徳の退廃は亡国の予兆だ。前車の轍を踏む愚行を繰り返してはならない。
今は論議より実行である。