「義」「勇」について


「偽」から「義」へ

 昨年一年間の世相を象徴した漢字は、恥ずべき「偽」であった。
本章に掲げる「義」は、「偽」と同音でありながら、両者の本義は全く正反対である。
「義」は「無私」の観念から発し、公共性や規範意識の根幹に繋がるものであるが、「偽」は「利己」のみの発想に基づく行為である。
「義」を背後に持たない「利」は、止まるところなく堕落し、「義」を失えば、日本人の持つ公共意識や規範意識は限りなく崩壊してゆくだろう。
これらの現象は、高等教育や社会的地位には無関係に、幼少時代の道徳教育の欠落ないしは劣化に起因するものと断言せざるを得ない。


「義」「勇」の意味

 まず「義」は「私欲を捨てて公共のために尽すこと」(大辞泉)「他人に対して守るべき正しい道」(日本国語大辞典)とある。
つまり「義」とは「公共のために」「他人に対して」という「私」を離れた視点の上にあることが理解できる。
「勇」は「思い切りがよい」「物事をおそれず、心が強いこと」などとある。

 「義」「勇」を提唱した古今内外の道徳学者は数多くみられるが、ここで新渡戸稲造の『武士道』を見ると「義は武士の掟中最も厳格なる教訓である。
しかし、勇気感、敢為堅忍の精神がなければ義はたやすく卑怯者の巣と化す」と説かれ、また「勇は義のために行われるのでなければ徳の中に数えられるに値しない」と述べているとおり、「義」と「勇」は徳として一体をなすものであるとする。
『武士道』にあるとおり、「義」と「勇」は徳として一体であり、「献身」「没我」「自己犠牲」の観念に通じるものである。
また、内外の識者の説からも、「義」「勇」は個人の人格上の徳性を磨くものを超えて、「没我」「献身」「自己犠牲」という公的な性格を持つ徳性であるとされる。


「祖国のために死ぬ」ということ 

 評論家の絓秀実氏は、「そのために死にうる『国家』」という論評の中で、「『祖国のために死ぬ』ことを求める憲法」という観点からの各国の憲法では、国民の国防義務が規定されていることを特筆している。
各国の憲法と比較して、非常時における国防を全く論じない我が国の憲法は、やはり異常と言える。
戦争を放棄したのだから当然というのでは、言い訳にもならない。
我が国の憲法では、国防の義務を国民一般には課していないが、自衛隊員だけが自衛隊法による国防義務を負っている。
つまり自衛隊員だけは「祖国のために死ぬ」ことを厭わないという重い「大義」を担っているのである。
そもそも、西欧型の近代的な国民主権の憲法の理念からすると、国民はむしろ、自国の防衛に対して平等な義務を負うのが通例であろう。


学校現場への要望

 新学習指導要領案では、道徳の教材には偉人伝や伝統と文化など「感動を覚えるような魅力的な教材」を充実することが示されているが、「義」「勇」についての学校現場の指導に当っては、電車のホームから転落した人を助けようとして死亡した人や、踏切内に入った女性を助けようとして殉職した警察官の実話などを聞かせたり、また、掛け算の九九を声に出して覚えるように、格言・諺の音読・暗唱をさせて、心に刻ませることが有効である。
例えば「見義不為 無勇也(義を見てせざるは勇なきなり)」(孔子)や「弱きを助けて強きを挫く」などである。